子どもは平均18.2歳で祖父母の死に立ち会う

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育児・子供観察

子どもが初めて出会う身近な人との別れ。
そのインパクトが大きいか小さいかは、それぞれの関係性があるので一概には言えません。
年齢順に行くなら、最初の身近な親族の死は「祖父母」。
日本の子どもが祖父母の死に立ち会う平均年齢は18.2歳です。

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僕が最初の葬式出席は小学1年生

僕が最初に葬式に出席したのは、小学1年の時でした。
実際にはそれ以前に葬式に参列したのかもしれませんが、少なくとも記憶に残っていません。

僕が出席した葬式は、同じクラスの友達の式。
そのクラスメイトは、近くを流れる大きな川におぼれて亡くなりました。

ある日、いつも通り学校に登校した時の1限目前の時間帯。
担任の先生がクラスに入ってきて、全員を席に着くよう、抑え目の声で指示。
子ども達が着席後、先生は「授業の前にみなさんにお話があります」と話しだしました。

あるクラスメイトが、川におぼれてなくなった。
葬式が〇月〇日にあり、出席するかどうか、お父さんお母さんと話して決めてください。
おぼろげな記憶ですが、そんな話を先生から聞きました。

僕はその当時、葬式がどんなものか分かっておらず、帰宅後、親に一連の話をして、葬式に出席して良いか聞きました。
親は了承、友達とその葬式に出席しました。

いま思い返してみても、まったく葬式をわかっていない行動だった気がします。
たくさんの黒い服を着た大人たちが、神妙そうな顔している変な雰囲気の場所。
大きな写真(遺影)があり、その周りに花がたくさんある。
しかし興味はそこではなく、帰り際に配られたお菓子が嬉しかった記憶が強く残っています。

クラスメイトの死が身近かどうか状況に寄りますが、子どもが何歳くらいになると、死をわが事と理解するのか。
個人差がありますが、小学校高学年くらいになれば、ある程度分かるような気もします。

ある親戚の、火葬場で遺骨を骨壺に納める「骨上げ」を見ていて、ぼんやり考えました。

親戚の子どもが小学1年で祖母の死と向き合ったとき

あるとき、義母がなくなり、その葬式に僕は出席しました。
そこに親戚の男の子、3人兄弟も参列しました。
3兄弟の年齢は上から小学校中学年、2番目が小学校1年、3番目が幼稚園児。

その3兄弟にとって、実の祖母の死なので、父母に連れられ、火葬場にも臨席しました。
「骨上げ」の段になり、3兄弟がそれぞれ違う動き。
一番上の子どもは「骨上げ」を行い、一番下の子どもはまだ箸がうまく使えなかったため「骨上げ」をせず。
真ん中の子どもはもう箸が使える年齢でしたが、お骨が怖かったようで、焼かれた骨に近づきませんでした。

小学生になって、鳥の骨を見た経験がない人はまずいないと思います。
動物の骨は見ていて、動物の骨がどんなものかは知っている。

人の骨を見るのは、一般的には親族の死で火葬場の「骨上げ」に出席くらしかありません。
多分、真ん中の子どもは初めて「人の骨」を見て、おびえたようです。
これが人間の身体としての祖母との最後の別れであることより、恐怖が上回ったようです。

小学校で祖父母の死に遭遇する。
それが早いのか遅いのか、平均値を調べてみました。

子どもが祖父母の死に出会う平均年齢は18.2歳

孫が祖父母の死に立ち会う。
一般的な順番なら、一番最初の身近な死との出会いはこのケースです。

当たり前ですが、孫が生まれる前に祖父母が他界していたり、孫が中年になっても祖父母が存命しているケースもあります。
今回その平均値を出してみました。


出典:平成29年簡易生命表の概況(厚生労働省)

まずは「日本人の平均寿命推移」が上記です。
2017年の男女平均寿命は84.2歳。


出典:人口動態調査(厚生労働省)

次に「父母が子どもを生む年齢推移」です。
2016年の父母(平均)が子どもを生む年齢は32.9歳。

ここから粗い計算ですが、「子どもが祖父母の死と向き合う年齢」を出します。
上記の「父母が子どもを生む年齢」を2倍したものを、「祖父母と孫の年齢差」とします。
[平均寿命(男女平均)」から[祖父母と孫の年齢差(男女平均)]を引いたものを、目的の[子どもが祖父母の死と向き合う年齢]とした結果が以下です。

このグラフを見ると、子どもが祖父母の死に向き合う平均年齢は約18歳。

グラフがわずかに山型ですが、経年でおおきな変化はありません。
1975年~2016年の平均は18.3歳。

僕はグラフが「右肩上がり」になると思っていました。
出産年齢も高齢化していますが、それ以上に日本人の平均寿命は延びていると思っていたためですが実際は横ばい。

まとめると、子どもは高校卒業後くらいに祖父母の死と向き合うのが、日本の平均値です。
この年齢であれば、人の死がどんなものか理解はできますが、その死を真剣に考えているかは個人差でもあります。

身近な人の死の受け止め方

高校卒業時に祖父母が亡くなったとして、その人はどうとらえるのか。

当たり前ですが、人それぞれで、良いと思っています。
少なくとも親を含め、だれかに「悲しみなさい」と強制されるものではないと思っています。
僕が強制をしてほしくない理由として、葬式(葬祭)を特別視しすぎている人がいると思っているためです。
具体的には「(何年か経過しても)あいつは葬式にでなかった」のような発言する親族をイメージしてください。

葬式に出るのが当たり前という押しつけは、僕は思考停止だと思っています。
だれかの死に際し、どう感じてどう行動するかは、基本は個人の意思を尊重すべき。
もしかすると故人との間に「死んだら葬式なんて出なくて良いのでどこかの海で一献、傾けてくれ」のような、親しいがゆえのやり取りがあるかもしれません。

何親等離れているのか、物理的に近い距離だったのか、どんな交流があったのか。
その上で、告別式をはじめ、四十九日法要などに参列するかは、個人判断にゆだねられると良いと思っています。

僕は通夜や告別式など、自分が「一緒に良い時間を過ごせたなぁ」と思う人の式だけに参加したいと思っています。
逆もしかりで、自分の死に際し形式的に参列する人がいるのであれば「暇ですなぁ」と、死んでいるので思うこともできませんが、いま生きている側で考えます。

とはいっても、現実には僕の思い通りにはいかず。
最後に話したのは何十年も前で、たいした思い出もない人の式に出ざるを得ないこともありますが、単なる義務。
区切りに立ち会う、と言う意見もありますが、そこに立ち会わなかったとして、何の影響があるのか。

何十年も昔の小学校の恩師、その人の一言で人生が救われたような経験があれば、その恩師の死を聞いて挨拶をしたい気持ちは、意義深いと思っています。

さいごに

本をなぜ読むのか。
いろいろな意見はありますが、人の死を考えるには、これほど良い素材はないと思っています。

特に小説などのジャンルは、自分以外の人の人生や意見を疑似体験できます。
絵本もその1つ。

すぐに思い出せない人もいるかもしれませんが、死についての思い入れがある絵本がある人も多いと思っています。
僕にとって、それは『100万回生きた猫』です。

僕は自宅近くに大きな図書館があることもあり、たくさんの絵本を子どもと読みました。
大人になってから読み返す絵本は、感慨深い。
文字数が少ない分、想像する分が大きく、イマジネーションを掻き立てられます。

わが家の子どもも、いつか大切な人の死に遇した時、思い出す絵本があるかもしれない。
これまで、子どもに1,000冊以上の絵本を読み聞かせた経験から、そんな1冊があったら嬉しいと思っています。