知らなくても手を挙げる子どもの強心臓

スポンサーリンク
育児・子供観察

物おじせず、全力で自己アピールする幼児期。
どんな質問にも「はいはいはーい!」のシーンは見ていて微笑ましいです。
僕は大人は一定の礼節を持つと良い思っていますが、子ども時代は前のめりの自己主張もありだと思っています。

スポンサーリンク

無敵モードの幼少期

僕が家族でディズニーランドに行って、ジャングルクルーズに乗っていた時のことです。
子どもが小さいと、ジェットコースター的な派手な乗り物は乗れず、ジャングルクルーズのようなゆったりとした乗り物がメイン。
少年から青年時代の血気盛んな時期であれば物足りないかもしれませんが、小さな子どもと日ごろ過ごしていると、これくらいのスローモードに心身は慣れています。

わが家の家族で乗り込んだクルーズ船は、のんびりゆったり進みます。
やがてゴール近くに近づいた時、クルーズ船渋滞が発生して一時停止しました。
前に2艘、船がゴール待ち状態で、それより前の船の下船が何等か手間取っていたようです。
こうした些事に、いちいち腹を立てなくなるのも、子育てのたまものかもと思います。

クルーズ船渋滞がすぐに解消されそうにないと察したのか、われわれ家族が乗った船の船長さんは、場つなぎとしてクイズを始めました。
動物にまつわるクイズで、こういう準備力や現場力(ドラマ力)は、さすがにディズニーキャスト。
お客様を飽きさせないよう、たくさんの引き出しを持っています。

何問目かのクイズで「キリンの泣き声を知っている人、いますかー」というものが出ました。
言われてみると分からない。

そこで、わが家の子どもが手を挙げて「はーい」と言う。
「えっ、君、知っているの?」と親側の僕が不安になります。

船長さんは、小さな子どもが挙手しているのを見逃すはずはありません。
素早く「はい、そこのお子さん、答えは何ですかー?」と聞いてくれます。

わが家の子どもは「えっと、えっとねー、えっと・・・」
どうやら知らないのに手を挙げただけのようでした。

そこでも船長さんのプロフェッショナルフォロー。
「そっか、これはたまたま知らなかったのだよねー、牛さんの泣き声はなんですか?」とわが家の子どもに尋ねます。
わが家の子どもは「モーーー」と返答。
「正解!キリンさんの泣き声はモーでしたー!」
その答えに僕も他の乗船客も「へーーー」と小さな歓声を上げつつ、わが家の子どもの躊躇のなさ、無敵モードを感じていました。

逃げモードの少年期

別のある時期、親戚の何家族か集まって飯を食べる機会がありました。
そこに出席したあるご家族の長男は高校生、夏休みにニュージーランドに短期ホームステイしたことが話題に上りました。

それについて、何人かの大人からあれやこれや質問がでる。
ホームステイ先はどうっだたのか、何が楽しかったのか、英語が話せるようになったのか。
短期で英語が話せるわけもないのですが、たわいない質問がつづきました。
それに対する高校生の回答が、定番の一言。
「別に」。

答えるのがめんどくさいのか、表現する言葉を持っていないのか、本当に何もなかったのか。
自分の高校時代を思い出してみてると同じだったなぁと懐かしく見ていました。
回答を持っていても、言葉にするのも大人に説明するのもめんどくさい。
周りの目を必要以上に気にする、自意識お化けの頃です。

小さい子どもは、なんでも好き勝手に、怖がらず発言していたことを考えると真逆の姿勢。
それが、どこかのタイミングで発言しなくなるのは、日本の環境や教育のなせる業なのか。

バランスモードの社会人以降

最近の会社での会議では、一昔前に比べ自分の意見を言う人が増えたと感じています。
僕の身の回り観測なので、この話は一般論だとは言いません。

それでも特に少人数、5人以下の会議だと、よほど怖い人(権力者含む)がいない限り、だれでも意見を言う雰囲気があります。
時代として、大人数会議や報告するだけの意味のない会議の不要論が一般化し、会議に出席するからには、意味ある時間にすると考える人が増えているのかもしれません。
一定の心理的安全性が確保されている状態と言えます。

僕は昭和時代の会議に出席した経験がないので想像なのですが、当時は上意下達で、下っ端は座っているだけだったと思っています。
役職者や年長者、社歴の長い人が、経験論で方向性を決め若者は従う。
これでは、変化の激しい現代ではまず通用しません。

いまは若者の方が技術に明るいことも多く、技術面においては年長者の方が足手まといになりやすい環境です。
変化に対応する柔軟性を持っていないと、老害と切り捨てられるのが年長者。
それでも年長者にも磨いてきた武器があり、お互いを尊重しあえる関係性が良いプロジェクトの基本。

持ちつ持たれつの精神が土壌にあると、相手を押さえつける不合理さが分かります。
目的は敵対ではなく対話、協力してより良いものを作っていくだけ。

幼年期に何でも発言、少年期に引きこもり、社会人でバランスを持って人と関係性を築く。
突出した人を除くと、この流れがいまの一般的なルートだと思っています。

子どもの考えを摘み取らない

子どもと親の視点の違いを、子どもと一緒にいるとたまに感じます。
たとえば、オモチャを買ったとき付いていた袋を、親側はゴミだと思っていたのに、子どもは別の場所に保管するような行為。

大人側から見ると「(それゴミなので)ゴミ箱に入れないの?」と子どもに聞く。
すると「ちがうちがう、そうじゃなくって、そうじゃなくって・・・」と説明を始める。
子どもが自分の意見を持つ頃、よく見かける光景です。

語彙が少ない時は、発言がたどたどしい時もあります。
これはこれで、その場にいても思い返してみても、頬が緩みます。
子どもが何か言おうとしたら、何も言わず、子どもの言い分を聞いてみる。
すると思わぬ回答が出てくることが、わが家ではよくありました。

「コレはね、ゴミじゃなくってね、あとでしまうとき、また使うの」
なるほど、そういう意図があったのだ、と気づきます。

大人の(個人的な)常識ではなく、子どもには子どもの視点・世界があり、そのルールで動く。
それを大人が枠にはめ込むように、それはゴミなので捨てます、と言ったらどうなるか。
この積み重ねが、素直な発言を削いでしまわないか。

子どもを1人の人間として、その意思をどれだけ尊重、放置(見守る)できるか。
親側の器が試される場面です。

さいごに

最近、会社組織などでよく行われている「1on1(ワンオンワン)」。
上長が部下と1対1の面談をして、部下の意向を聞いて、育成につなげる取り組みです。
ここで重要と言われるのが傾聴力、心を傾けて聴く姿勢。
当たり前ですが、こうしろああしろと言われて、人が育つのは望みが薄いです。

これは子どもとの関係でも、通用します。
子どもが話し出したら、話の腰を折らずに、たまに助け船を出して、最後まで聴く。

子どもの言い分を受け止めることはもちろん、好きなことを言ってもよい、と思ってもらいたい。
親子で意見が違うことも、お互いにとって良い経験「君はそう思うのだね、僕はこう思う」。
子どもの視点は本当にあなどれず、自分の頭の固さ(固定観念)を認識できます。
もちろん社会ルールに照らしておかしい点は、親として指摘しつつ、そのルールが絶対的ではないことも忘れない。

子どもが将来どんな人間性を身に着けるか分かりませんが、ちゃんと親が話を聴いてくれた記憶は、無駄にはならないはず。
そして、理不尽怪獣の子どもと日々接していると、自分の受容の器が少し大きくなります。
家の中の壁の落書きも、「まぁ、いっか」となります。