ルール推進派の誤謬

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育児・子供観察

近年の公園は禁止事項が多い。
実際、東京の公園の多くにボール遊び禁止の看板があります。
止むにやまれぬ事情があったのか、なし崩し的にそうなったのか。
ルール化することで、失われるものもあります。

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公園は公共エリアだが

ある公園でプロのカメラマンと思しき人が、小さな子どもを連れた家族の写真を撮影していました。
以前に書いた、最近、見かけるようになった小さな子どもと家族のスナップ写真撮影している光景です。
ふと気づいたのですが、その撮影部隊の横に小型のドーム式テントが設営されていました。

その公園は、テントやタープの利用禁止の公園で、定期的に公園内全域に、禁止アナウンスしています。
その効果があるのか、テントやタープを見ることはほぼなく、多分、管理事務所の職員の方が、定期的に巡回してテントやタープがあると「ココは禁止ですよ」と話していると予想しています。

撮影隊のテントは、小さな子どもが着替える時使うものだと思います。
撮影に際し、何種類かの衣装があって、屋外での着替えは微妙なので、目隠しとしての役割のテント。
何にせよ、自分が公園管理側だったとしたら、このテントを撤去させるのが良いのか、僕は悩みました。

公園は、万人が使う「公共」エリアです。
万人なので、子ども優先でもなく、年寄り優先でもありません。
この万人については、最近は料簡が狭いご時世になりましたが、その証拠のように公園ルールが増えています。
そもそも、お互いが譲り合って、トラブルがほぼ起きなければ、ルールは不要です。

声の大きい人、繰り返し文句を言う人の意見が強く、そこに迎合するのかルールで縛る。
ただ、すべてが文句を言う人が悪いわけではなく、ボールを家の塀にずっとぶつけられ何度も注意したが治らず、仕方なくなどの状況は想像できます。
他者不寛容というより、自分が良ければあとは知らない思想のマイノリティによって、ルールが増えているが妥当です。

実際、最近はボール遊び禁止の公園が増えています。

大都市圏の公園の大半はボール遊び禁止

その結果、公園の禁止事項は近隣からのクレームによって生まれやすく、特に公園と住宅が隣接する都市部で起こりやすい現象だということが分かりました。調査した中でも顕著なのは、野球・サッカーができない公園が中京圏近郊の地方都市では22%にとどまるのに対し、首都圏では100%、関西圏でも62%にのぼることでした。また首都圏や関西圏では小学生がする野球・サッカーと、乳幼児・幼児が保護者と柔らかいボールを使ってする遊びがひとくくりにされ、画一的にボール遊びが禁止されているところも多くありました。

出典:首都圏のほぼすべての公園は「野球・サッカー禁止」。公園が子どもの遊び場でなくなる現状(AMP)

上記のデータが正しいのか、ファクトチェックはできていません。
ただ、僕は東京在住で、東京の公園を200か所以上、興味があってカメラ撮影しました。
その経験からも、禁止看板はかなりの数、見ています。
また、実際に公園でボール遊びしている子どもは、ほとんど見かけません。

もちろんゼロではなく、禁止看板があることを知ったうえで、ボール遊びしていると思われる子ども達はいます。
ただ、一応、周囲への配慮的な感覚も持っているようで、それはもしかすると怒られる大人が来ていないかの確認かもしれませんが、ボール遊びしながらたまに周囲を見ていました。

また、僕がわが家の子どもと、公園に長時間滞在で遊ぶようなときは、こちら側で注意することはありました。
近くにボール遊びをする子ども達が来ると、こちらにボールが飛んでくるか予想して、飛んできそうなら僕がガードできる位置にいたり、ボール遊びが激しくなるならこちらが、違う遊具に移動するなどの、回避策を取っているので嫌な思いをしていないのはあります。

これはわが家の子どもにとって不満になる懸念もありますが、自営でもあり他者共存でもあります。

子どもが遊ぶ権利についての条約

日本は「児童の権利に関する条約」を批准している国です。
その「児童の権利に関する条約」の中に以下の条項があります。

第31条

1 締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。

2 締約国は、児童が文化的及び芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的及び芸術的な活動並びにレクリエーション及び余暇の活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。

出典:児童の権利に関する条約(外務省)

子どもは遊ぶ権利がある、という内容です。
ただ、これは公園についての記載かというと、拡大解釈になるのかもしれません。
もう少し現実に近い条例の一例として、東京都豊島区の条例に以下の記載があります。

第10条 子どもは、かけがえのない時を過ごすために、次に掲げることが保障されます。
(1) 自分の成長にあわせて、憩い、遊び又は学ぶこと。

第14条 区は、子どもの権利を保障するために、次に掲げる環境等を整備し、充実させなければなりません。
(3) 安心して休み、遊び又は学べる環境

第17条 施設関係者は、子どもの健康を守り、子どもの育ち、遊び又は学びを、子どもの主体性を尊重しながら充実させなければなりません。

第21条 施設関係者は、子どもが育ち、遊び又は学ぶ存在であることを認識して、子どもの自主的な活動を支援しなければなりません。

出典:豊島区子どもの権利に関する条例(豊島区)

豊島区の条例にも「公園」の具体的な記載はありません。
ただ、第14条2項や第21条の「環境」や「施設」を指すものとして、公園が最上位に来るものと考えられます。
こうした条例は、すべての市区町村にはありませんが、調べるとそれなりにあります。

この2つから、子どもは遊ぶ権利がある。
それをわざわざ明文化しています。

そして、公園でボール遊びを禁止する。
ボールで遊ばなくても、他の遊びで良い、というは考えは成り立っていますが、どちらも、大人が決めたルールです。

ルール化してどこに向かおうとしているのか

僕が子どものころは、地方在住だったことはありますが、公園の禁止看板自体ほぼみた記憶はなく、あっても火遊びNGのようなもので、ボール遊びについての記載は皆無でした。
実際、僕は公園でキャッチボールや、野球もサッカーをやっていました。
いまとは時代が違っており、都心部と地方の人口密集度の差はあります。

とは言え、ドラえもんで、空き地横の家の窓ガラスを、ジャイアンが何度も割って、のび太が謝りに行くシーンがありますが、あれが実際に自分の家の頻繁におきたら、僕は行政に相談する気もします。
その時は、自分の中で子どもたちを制約するルールを作った、少しの負い目を持っても、日常生活の平穏さの確保に走る気がします。
そう考えると、僕はボール遊び禁止側の人間のようです。

ただ、僕はできる限り、ルールは作りたくないと考えています。
ルール化は思考停止になります。

「それ、ルールだから」。
強い言葉で、正義なので、太刀打ちができません。
それ以外を受け入れない不寛容姿勢でもあります。

僕は自分の所属している組織でもそうですが、「自分で考えて」が基本だと思っています。
それが合っていても間違っていても。自分で納得の理由で動くのが重要で、間違っていれば修正していくだけです。
言われたことしかできない人は、この先、さらに厳しい時代になるのは見えています。

子どもも同じどころか、子どもの頃から自分で考える習慣化ができていたら、自立面では相当の強みになります。
言われた内容やルールを「ほんとにあっているか」を自分の中で検証し、アクションする。

たくさんのルール化は、息苦しさでもありますが、それ以上に考える能力の低下がマズイと感じます。

さいごに

文句が多い人の中に、自分も我慢しているから相手も我慢するのが当たり前、という発想の人がいます。
往々にして、このタイプはルール推進派です。
自分の考えを発言するのは保証された権利なので、だれかがとやかく言う事ではありません。
ただ、それを外部に強制するのであれば、いただけない。

例えるなら、たくさんの人がお腹を空かせていて、1つだけ饅頭があるような状況とします。
そのまま放置したら饅頭は腐って、結局だれも食べられなくなります。
それでも、自分も我慢し相手にも我慢を強制する人は、全体幸福を考えてもおらず、単史眼思考です。

その集団に、小さな子どもや妊婦さんがいたとしたら、その人に食べてもらうのはまずいのか。
饅頭がなぜそこにあって、どこからきたのか、どうしたらもっと手に入るのか考えるなど、違うアクションで多くの何かを得られるかもしれない。

ルールが好きな人を縛っているのは、自身です。