時代は「言わぬが花」ではなく「和して同ぜず」、ただし学校などでは臨機応変に

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育児・子供観察

いじめのニュースを見聞きしていつも思うのが、閉鎖社会という単語です。
個人個人の悪意は低くとも、集団生活での同調圧力お化けも出現して、結果マズイ状況になる。
日本人特性も根底にはあるとも感じますが、大人になると「そんなことして何になる」と感じます。
僕は「自立」ということを、大人になって強く意識するようになりました。

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いじめの認知件数は増加だが調査方法の変化が原因

人口1,000人当たりの、小中高のいじめの認知件数推移が以下です。


出典:平成29年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について(文部科学省)

一番のポイントとして、小学校の最近の数値がかなり増加しているという点。
理由は、いくつかの社会的に大きく取り上げられたいじめニュースで、各学校がいままでやっていなかった調査を行ったというもの。
その結果、ささいないじめもあぶり出されて、数値が上昇したという事情です。

隠れていたいじめが表面化した、大事になる前に事前に芽を摘む、それは良いことです。
人間という生物から考えて、いじめゼロは絵空事かもしれませんが、目指すべき場所はそこです。
加害者養護ではないですが、本来いじめに加担するような人ではないが、周りの状況でそうなってしまう。
こういう状況も、事前に防げるのであれば良いと思います。

グラフを見ていて思うのは、年齢が若いほどいじめが多いということ。
一定の年齢にならないと分別がつかない、というのは往々にしてあります。
以下のグラフがその裏付けです。


出典:平成29年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について(文部科学省)

なぜいじめが発生するのか。
個人的には一番のキーワードは「閉鎖社会」だと思っています。
個人個人が自立していて、自分の意見が言える環境であれば、いじめの件数は激減。
それが、集団の同調圧力で、いじめる側にもいじめられる側にもなる。
いじめられる側になるのはイヤなので、いじめを黙認。

日本人特質と言われる以下の比較は、そうした点もあると思っています。

日本人は対立を避け、感情を出さない民族

対立するかしないか、感情を出すか出さないかという国際比較図がありました。


出典: Getting to Si, Ja, Oui, Hai, and Da(Erin Meyyer on HBR.org)

この図によると、日本は世界で1番対立を避け、感情を出さない国となっています。
自分や身の回りを観察しても、納得感があります。
欧米人とは比較にすらならず、アジアの中でも多分、一番前に出ない民族。
「奥ゆしい(意味=慎み深く上品で心がひかれる)」という単語は、象徴的のような気もします。

「配慮」と言えば聞こえは良いですが、本来言うべきことでも黙ってしまう。
「いまここで反対意見を言うと場の雰囲気が悪くなりそうなのでやめておこう」という経験は、自分にもあります。

個人的にはここでも「自立」という単語が思い浮かびます。
対立を避け感情を出さないことが、自立していないというわけではありません。
ただ「自立」には「対立も辞さない覚悟」という側面もあると思っています。

相手と対話であるダイアローグ。
いまより良い場所に行くために、摩擦を恐れず「なぜ?」を相手とやり取りする。
相手の意見を受け入れる時点で対立ではないかもしれませんが、議論が白熱すると「対立」に近い状況にもなります。
人格否定ではなく、単なる議論というスタンスは、日本人はまだ経験不足のようにも感じます。
最終的には相手の意見も受け入れて、自分の意見も述べて、調和点を探る。
「調和」という考えは、日本人は得意分野だと思っています。

ではどうすれば日本人の特質も踏まえたうえで、学校などでいじめにあいにくくなるか。
僕には答えはありません。
環境依存というのが一番近く、いまのネットいじめまで考えると、個人で対処できるレベルを超えていると感じます。

それでも自分の子どもがいじめにあったら、迅速に転校を視野に入れて、本腰で対応したいと考えています。
子どもにとって、子どもが所属している環境は生きている世界の大半。
子ども自身が視野が狭くなっていて、どうにもならないと考えてしまうことも予想できます。

そんな時こそ親の出番。
親の本気度は、将来にわたって親子関係に影響するとも考えています。
また良い意味で「逃げる」という事を学ぶ良い機会、コレも日本人は苦手としていると感じます。

さいごに

社会に出るとブラック会社などを除き、表立っていじめに合うことは少ないと感じます。
局所的ですが、いま自分が所属している組織も、取引先他社もそうした雰囲気は感じません。
会社は人間の集まりなので、誰が嫌いという感情は当然あるのでしょうか、表に出さないというのが正しいとも思います。

大人だから当たり前、と言えばそうかもしれません。
しかしそれ以上に、個人個人のやることや、やりたいことが膨大にあるからだと感じています。
子育て世代なら、今日の晩御飯のメニューや、週末の予定など。
独身の方なら、友人との遊びプランや、自分の趣味など。

ある年齢で、世界が多様化していることに気づく。
他人のやっていることもアリだと思える、1つのターニングポイントだとと思っています。

それでも人を貶めるような人も、一定数いるのも現実です。
「そんなことして意味ある?デメリットが大きくない?自分のやりたいことの方が重要」という考えの人が多いので、大人のいじめははほとんどないとも思っています。

さいごに、子どもを持って強く思うようになったことの1つに「正しいことを普通にする」が僕にはあります。
基準は「小学校の子どもが納得してくれる」というところ。
自分の発言や行動が、小学生の子どもが真似しておかしくないか、という言い方もできます。

現実は綺麗ごとだけで大人の社会は回っておらず、ドロドロしたものは結構な割合であります。
そうであるがゆえに、自分の頭の中の小学生と対話しつつ、行動を決めるのも1つの考え方です。

「本当の友達とは間違ったことをしたときに間違ったと指摘してくれる人」という文を以前どこかで読みました。
ボーダーレスの社会環境も含め、「言わぬが花」ではなく「和して同ぜず」という姿勢。
ただし学校などの閉鎖環境では臨機応変さも必要と考えます。