トラブル対応「考」具を持つ意味

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育児・子供観察

「故障が起こるかもしれない」前提で動く。
危機管理意識を習慣化している人は無意識の呼吸のようなお話ですが、万人がそうではないのも事実です。
先を読んで動くのは、人生を楽にするツールのようなもの。
それを子どものころから経験し学べたら、生きるのが少し楽になります。

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久しぶりのパソコンの再起動

僕は最近テレワーク(在宅業務)になり、久しぶりに「パソコンを再起動」する機会が出ました。

僕の在宅での業務環境は、ノートPCをwifiで接続、VPN経由で会社の環境に入ります。
OSはWindowsOSで、ファイルは共有サーバーにあり、何をするにもネット経由です。

ファイルを開くとき、ダウンロードが必要になるので、ファイルを開くとき数秒遅くなる。
容量の大きいファイルだと、10秒かかることもありますし、毎回、ウィルスチェックが走ります。

会社に出社していたころに比べ、自宅のネットワーク環境が貧弱なため、不安定になる何かがあるかもとは考えていました。
その中でも予想できていなかった、OSの再起動。
いくつかのファイルを開いて、いくつかのWebページを閲覧していると、たまに「固まる」、フリーズです。

いまのWindowsOS(Windows10)は、フリーズと言ってもOS自体が固まるケースはほとんどありません。
OSは重いなりにも動いていて、アプリケーションを強制停止すれば、たいてい回避できる。

たいして、昔のWindowd95/98あたりは、完全停止が程よく発生していました。
作業が順調に進んでもう完成だと思ったころ「フリーズ」は、当時のOS利用者は、ほぼ全員体験していると思います。
あのだれかに当たってもしょうがない、そのやるせなさを抱えての電源長押しは当時の名物の1つでした。

MacOSも類にもれず、よく固まっていました。
デザイナーは昔からMacOSを好んで使っていたので、画像編集などをMacでしている。
パソコンが貧弱なスペックの時代、重い処理はそれはそれは固まります。
個人的に、当時Macを使っていた人は、いまよりアップル信者度が高かったと思っています。

僕はいま、自宅で仕事をしていて、(Windows)OSが停止するわけではないのですが、ネットワークがつながらなくなって再起動をするようになりました。

パソコン作業で保存する癖がある人

PCがフリーズする時代を経験した人には、最近のOSしか知らない人に比べ、1つ違いがあると僕は認識しています。
それは作業中、頻繁に保存(セーブ)する癖がついている。

僕は当時を経験した世代で、いまでも無意識に保存する癖がついています。
テキストファイル数行入力したらコントロール+S(保存のショートカットです)を、左手が勝手に押下。
ほとんど無意識レベルのアクションになっています。

翻って、いま、20歳代の若手社員などをみていて、保存を頻繁に実行しない人がいる。
そしてたまに聞く「ここ数時間の作業が全部やり直しになってしまいました」。

現代風といえば、いま僕が所属している組織では、会社全体で1時間毎に、ファイルバックアップを自動的に取得しています。
各人が定期的にファイル保存を実行していれば、直近1時間前のファイルから、作業を再開できます。

こうした、何かあった時の便利機能は現代は、IT化が進んだ企業ではよく聞く話ようになりました。
それが逆に、個人が「障害発生を想定しない」要因の1つかもと思ってもいます。

「壊れない」を前提で動いているのか、「故障が発生する」前提で動いているのか。

故障が前提となっているか

仕事をしていて、どの程度、障害・トラブル発生を見越して、対策を講じているのか。

「ポケットに手を入れて歩いてはいけません」と学生時代、言われました。
大人になるとこの意味がわかる「ポケットに手を入れて転ぶと、大けがをする」。
学生時代は、男子は特にカッコつけでポケットに手を入れていた、僕もそのバカの一人でした。
転ぶ(失敗する)を前提に動いていない典型例。

「トヨタの強い体質は治療によってではなく、むしろ『予防医学』によって作り出された」と言っている。故障や事故は起き来てから慌てるのではなく、未然に防ぐことができる方策を日ごろから徹底することだ。
(中略)
何十年に一度あるかないかという大事故や天災に備えて在庫を抱えるより、問題が生じた際にすみやかに修復できる力を備えたほういいというのもトヨタ式だ。
世の中には、大事故が起きてから「まさか考えもしなかった」などというコメントを平気で口にする人がいる。危機管理は、事故やトラブルの発生を前提に、「起きた場合はどうするか」「起こさないためにはどうすればいいのか」を考えていくことだ。こうした発言をする人は、危機管理の意識がないのだろうか。問題が生じたときの対策を考えていないとは驚きだ

トヨタ式が絶対の正解ではないですが、トヨタの現代社会での強さのエッセンスの1つです。
危機を含む未来予測し、臨機応変に変化し続けるのは、時代の趨勢です。

大半の人は社会人になって、仕事や組織に所属して、やがてめでたくトラブルを経験します。
その時、どう動くのか。

火消し人の極意

最初からトラブル対応は、よほど懐が深いまたはブラック企業でないと経験できません。
一般的には、組織長や先輩がトラブルシューティングし、それを横で見ている。

筋の良い人は、1度見ただけで見様見まねができますが、それでも経験が足りないのは当たり前。
トラブルが起こった時、どう動くのかの「ひな型」、抽象的・汎用的な思考を身につけるには、場数も必要です。

初動対応は迅速、できるだけ情報はオープン化、責任の所在などは無視。
客観的な情報収集と、原因の精査・切り分け。
再発防止策と、お客様やユーザー対応。

何回かのトラブルを経験すると「自分なりの型」が掴めます。
できれば、例えば「個人情報100万人分漏えい」の大炎上レベルの障害対応を経験できたら、トラブルの最中はガッツリ凹みますが、長期的にはチャンス。
これをうまく着地まで持っていければ、立派な「火消し人」の仲間入りです。

ただ、障害対応も向き不向きがあるのも、経験的に感じています。
メンタルが弱い人は厳しいのは、本人的にも組織的にも分かります。
冷静にかつ迅速に対応しないと火の手は広がるので、決断力・判断力も必要になります。

先読みする癖が習慣化できていない人も向いていない。
平常時、何手か先を見越して、最悪のケースも考え、どこまで事前対策を打っておくのか。
緊急時、目先だけではなく、いつどこにどんな手をまわしておくのか。
江戸時代の火消しでいうと、延焼を食い止めるためどこで家を壊すのかのようなものです。

これを子どものうちから経験できたらと、わが家に子どもが生まれてから、僕は考えるようになりました
場当たり主義も良いですが、時代はどんどん精緻化しています。
昭和時代の「飲んだくれオヤジ」が、現代社会で生き残るのが厳しいのは、だれしも頷くことです。

先読みのマイナス要素を考えると、「心配性になりすぎる」を思いつきました。
たしかに過度になるのはマズイですが、日本人がもともと心配性なのは遺伝で決まっているのも科学的な事実です。

先読みしすぎると、人生がおもしろみに欠けてしまう。
一理ありそうですが、それほど人生は単純でもなく、人間の先読み能力などたかが知れています。
日ごろからシナリオを考える習慣は、脳トレとして老化防止にも役立ちそうです。

これを空想や妄想とするなら、まさに子どもの得意分野。
オモチャで一人何役もこなして一人遊びしている姿を見ると、子どもは小さな作家だと感じます。

親が未来を予見する習慣を子どもに見せるのは、子どもにも好影響です。

子どもの「何で?」のチャンス

子どもはどこかで「何で星人(なぜなぜ期、質問期)」になります。
現実、質問を投げられる親側は、すべてに全力で答える(応える)のは難しい。
良い解答例でよく見かける「なんでだと思う?」のオウム返しですが、僕はこの問い返しがベストだと思っていません。

オウム返しが「子どもに自分で考えさせる」「親も受け流せる」がその意図だと、僕は認識しています。
「子どもに自分で考えさせる」点は同意ですが、それを繰り返すと、やがて子どもに見限られると思っています。
質問する子ども側からすると「この人に聞いても意味がない」「本気で向き合ってくれていない」。

親側対応の違うパターンとして、「何でもすぐに答える」や「Google先生に聞く」も、良くないパターン。
この人に聞いたら回答がもらえる、受動的な姿勢になる危険性です。

僕がやっているのは「できる限り本気で自分も考え、子どもにも感がえるよう促す」。

子どもの「何で?」がでたら、短時間で何パターンかの仮説解答を考える。
そのうえで「子どもになんでだと思う」のオープンクエスチョンを投げかけてみる。

出てきた子どもの解答を、一緒に検証する。
そこで先ほど自分が考えた仮設と照らして、時に誘導(ティーチング)する。

「なぜそう考えたの?」
→前提情報の正確さの確認、その重要性を知ってもらう
「こういう状況ならどうかな?」
→固定観念に縛られていないか、状況の認識が間違っていないか
「違った視点でみたらどうなる?」
→そもそも解決する必要があるかや、相手の立場に立ったものの見方

夜、曇り空で、お月様が見えないシチュエーションで考えてみます。

子「今日はお月様が見えないの」
親「何で見えないのかな?」
子「うーん、どこかに遊びに行っちゃったのかな。」
親「お月様が見えるときといまは、何か違いがあるかな?」
子「雲さんがいる」
親「そうだね、今日は雲さんがいるね。雲さんがいるとお月様が見えないの?」
子「分かんない」
親「あの建物の後ろに、いつも遊びに行く公園があるのは分かる?」
子「うん、いつもあそこで遊んでる。いまは建物で公園は見えない」
親「見たいものの前に、別の何かがあると見えないんだね」
子「うん、そう。あ!お月様の前に雲さんがあるの?」

こうした考えるための思考パターン、考える引き出しをたくさん一緒に積み上げる。
これは、故障や障害対応のベースになります。

さいごに

子どもの解答はおおむね単史眼的で、間違いだらけですが、おもしろいです。
自分の世界が狭く、それでもその中から出してきたまっすぐな回答は、時にホッコリします。
ときに「なるほど、そういう考えもアリかも」と思うものにも出会います。

一般的な正解は、当然大人側に分があります。
それが「平均回答」であるほど、「それ、本当にそうなの」を僕は考えることがあります。

子どもの突拍子もないアイデアが出てきたら、さらに膨らまして、空想世界の産物を作り上げる。
子どもの「何で?」に対し、「そういうもんだから」「分からない」で終わってしまったら、空想物語を子どもと紡ぎだす楽しみがなくなってしまう。

子どもの「何で?」は知識欲でもありますが、その奥には「かまって欲求」でもあると僕は考えています。