「どうしてカブトムシさん、死んじゃったの?」という子どもの質問にどう答えるか

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育児・子供観察

子どもに「死」をどう伝えるか。
身近な人や動物が死んだときに、経験する痛み。
命と死について、どう考えるかという死生観。
「死」は親として子どもと一緒に考える、とてもとても大きな命題です。

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大人になってからはじめてのカブトムシ飼育

子どもが小さかったころ、ある経緯でわが家にカブトムシが3匹、やってきました。
オスが1匹、メスが2匹。

当時、僕は知らなかったのですが、オスが複数いるとケンカして死に至ることもあるらしい。
コレはカブトムシ飼育の基本中の基本とのこと。
それすらも知らないくらい、僕はカブトムシに無知な状態、自分がカブトムシを飼うことを考えていない状況でした。

カブトムシ入手時に、一応子どもに意思確認。
「カブトムシ、飼う?」と聞くと、「飼う!」と返答。
幼少の子どもの返答に責任を求めるのではなく、少しでも「自分が言ったこと」という意識を持ってほしい、という親側の想いです。

飼っていたカブトムシの死

「自分が飼う」と言っても、実際はまず面倒をみないのが子ども。
年齢が小さいうちは準備は難しいので、虫かごを買ってきて、土や木を入れるなどは親が対応。
エサを購入したり果物を切ったりして、虫かごに入れるところから子どもの出番です。

うちの子どもは、かなりエサをあげていた方でした。
うちでは、1日1回、夕方~夜にエサをあげていました。
そのうちのほとんど、子どもが僕か僕の奥様にエサを準備してもらい、虫かごに入れていました。

虫かごのふたを開けて、まずカブトムシがどこにいるか確認する。
カブトムシの背中をつついたり、なでたり。
しばらくのぞきこんでいたり、話しかけたり。
最後にエサをカブトムシのそばに置いてふたを閉める。

そんなカブトムシは、8月~9月には死んでしまう生き物です。
わが家のカブトムシも、その自然の摂理にのっとり、死は訪れました。

カブトムシが死んだあと子どもは

死んだカブトムシを、とある場所に埋めました。
一応ですが、埋めてよい場所に埋めています。

子どもと一緒に小さなシャベルで穴を掘って、カブトムシを入れて土をかぶせる。
小さな棒をたてて、一緒にバイバイの儀式。
合掌。

子どもは埋葬時もその後も、泣くことはありませんでした。
「死」というものについて、どうとらえているのか、僕はずっと気にしていました。

生き物が死ぬということはどういうことか

仮に僕が独身でだれかに「カブトムシ、いる?」と聞かれたら、「いらない」と即答します。
それでも子どもを持った時に「いつかは」という可能性で想像していたのが、生き物を飼うこと。
もう1歩踏み込んで、その死に直面して「死」を考えるきっかけになるかも、という身勝手な思想。

動物愛護団体からお叱りを受けそうですが、生物の死に際し、子どもが「死」について考えるきっかけとなる。
僕は生き物の「死」に直面する機会を作る、コレは親側の重要な役割だと思っています。

毎日、自分が愛情を注いでいたものがある日いなくなる。
日常は非日常と背中合わせ。
子どもが小さいうちは、想像力が足りないので、実体験が実感となる。

このカブトムシの死の時は、わが家の子どもはまだ幼く、それほど「死」を認識できなかったと僕は考えています。
というのも、泣かなかったというだけではなく、その後の以下の発言からもそう想像しています。
「カブトムシさん、死んじゃって、ねんねしてる」

横道にそれますが、「死」についての物語として、とても引き込まれた本があります。

この本、「人間が不死になることを個人が選択可能」という設定。
フィクションですが、設定のスケールの大きさもあり、一気に読了した本です。
人は不死になると、どう考えどう行動するか、社会はどうなるのか。
「死」や「生」について、エンタメですが洞察が鋭いストーリー展開。
物語好きな方であれば、全力でオススメできる本です。

さいごに

以下の有名なイギリスのことわざがあります。

子供が生まれたら「犬」を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時、子供の良き「守り手」となるでしょう。
子供が幼年期の時、子供の良き「遊び相手」となるでしょう。
子供が少年期の時、子供の良き「理解者」となるでしょう。
そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に「命の尊さ」を教えるでしょう。

僕は幼少期、犬を飼った事があり、その死にいまでもじんわりとした鈍痛のような想いがあります。
よって上記のイギリスのことわざは、全面的に同意しています。
正直、祖父の死よりも犬の死の方が、圧倒的に死のインパクトがありました。

親の身勝手な想いですが、子どもに死を実感(受容)してほしい。
死の知ることで、より生きることを深く考える。
メメトモリ(死を想え)。

死を遠ざけたがる親もいるようですが、僕はそれは大切なことから目をそらす、子どもにとって良くない行為と考えています。
深く重要なことほど、しっかりじっくりと考える。
そうした積み重ねの上に、人間の本当の強さがあると思っています。

死ぬということがどういうことか。
実際の「死」をもってでしか、「死」を感じることができないのか。
実際の死の機会以上の何かは、いまの僕には思いつきません。

ちなみにカブトムシが死んだとき、子どもから言われたら親側が困りそうな以下の質問は、この時はありませんでした。
「カブトムシさん、どこに行ったの?どうして死んじゃったの?」

僕は、いまからどう対応するか、いくつかのシナリオを考えています。

ではでは。

◆今回のまとめ◆命と死について考える死生観
生物の死について子どもに考えるきっかけをつくるのは親の役割
日常と非日常は表裏一体