じっと子どもを待つ

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育児・子供観察

子どもが道端にしゃがみこんで、地面とじっと見つめる。
小さな子どもと歩いていると、地面だけではなく、いろいろなものにひっかかります。
対して、大人はよほどでない限り、立ち止まって凝視しません。
その違いを感じるとともに、できる限りその時間を確保したいと思います。

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砂場に金塊が埋まっていることはない

どこにでもある、地域密着型の小規模な公園。
わが家の子どもと僕は、一番馴染みのある場所。
そこに設置されている遊具はブランコ、滑り台、シーソー、そして砂場です。

今日もいつも通りのお砂場遊びセットを持参して、その出番を待ちます。
公園につくと、子どもは脱兎のごとく走り出す。
滑り台を何回か滑って、ブランコにちょっと乗って、シーソーでぎったんばっこん。
また滑り台を滑って、砂場でお砂場遊びを始める。

お砂場遊びセットは、原色のプラスチック製の小さなバケツやシャベルと熊手。
それに、子どもがお気に入りの、砂場用ダンプカーやショベルカーも入っています。
どれも100均で買えるものばかり。

砂場でもいつものルーチンのごとく、まずお山を作って、周りに溝を掘る。
そこに、水飲み場でバケツに水を汲んできて、流し込みます。
水の入ったバケツの重さは、1kgはないと思いますが、両手で持ってよたよた歩く姿は、子どもの成長を感じます。
いつか、この光景が宝物に変わるときがくるのかも、と暇な頭で考えてもいます。

ふと、子どもを見ると、しゃがんで何かを見つめている。
10秒、20秒、1分、動かない。
「何かあるの?」と聞いても、返事がない。

気になって、そこに近づくと金塊が・・・。
そんなわけはなく、アリさんがそこにいました。

しゃがみこんでアリさん行列を見る

僕がアリさんの行列を、最後にしっかり見たのはいつだったか。
子ども時代に見た記憶はありますが、成人になってからはたしてそんな経験があったか思い出せません。

子どもはじっと見ます。
しゃがみこんで見続けて、ときにアリさんをつぶしたりもします。

大人がなぜ、これをしないか考えると「それをやっても、リターンがない」。
無益な殺生で楽しくもないし、お金を稼げなどの実利もない。

大人脳で考えると、合目的というか功利的と言うか。

対して子どもと歩いていると、いたるところで「ひっかかり」を見つけます。
地面を見たり、樹木を見たり、石を並べたり、砂で山を作ったり。

たぶん、小学校に上がる前くらいが最盛期なのではと思っています。

大人脳だけでははかれないもの

子どもが立ち止まったとき、大人の目線で何もなさそうだと判断する。
そのとき「ほら、〇〇に行くよ」と急き立てる。

僕も約束の時間があるときは、これをやっています。
ただ、これで良いのか、と心の中で葛藤してもいます。

子どもにとって「いま、ここ」に、興味の対象がある。
それを、強引に引きはがしてしまってはいないのか。

綺麗ごとなのは承知しています。
たとえば、朝の出社前の自分と子どもの食事から出発準備までの戦争時間。
1秒を惜しむようなときに、立ち止まる余裕はありません。

それでも、休日で時間に余裕を作る事ができる日まで、急き立ててしまっていないか。
これが子どもの好奇心を少しずつ削って、やがて、子ども自身が自分で楽しみをみつける力の妨げにならないか。

時間に余裕を持つ

「ほら、時間だから行くよ」と言わないためには。
毎回できないですが、回避策は時間の余裕だと思っています。

出発準備する時間、目的地までに道程の時間を、計算するのは自分一人でも通常の行為。
それにプラスして、適度な余裕時間を持って行動する。

そうすれば、歩いている途中に公園が子どもの目に入って「あれで遊ぶ」と言われても少しは大丈夫。
時計を一緒に見ながら「じゃあ5分だけだよ」とか「滑り台3周ね」と約束する。

余裕時間を持った行動時の悩ましい点は、寄り道ゼロでスムーズに目的地に着いてしまった時。
大人なら、本やスマホで待ち時間を調整はできますが、子どもにじっと座って待っていなさいは酷です。
スマホを見せればたいていはおとなしく座っていられますが、できればそれは最後の手段としておきたい。

かといって毎回、新しいおもちゃを出すのも物質的過ぎで、それが目的化する危険性もあります。
持って行ったおやつを食べ、ジュース1本購入くらいで、子どもが待てるなら良しとします。

そんな時、僕は目的地の建物や周辺を「じゃあ探検しよう!」と言って、引っ張り出します。
「隊長、こっちに何かありそうです」と、子どもを探検隊長にしての、探検隊ごっこです。

目的地が施設内でのイベントであれば、パンフレットを探したり。
屋外であれば、建物付近に遊べそうな何かを見つけられないか。

子どもは、気分が乗れば付き合ってくれますが、ダメな時は手を変え品を変えて待ちます。
こうしたイベント待ちの「待ち」もありますが、日常的に発生する子どもの行為を見守る「待ち」があります。

プロは待つ

保育士さんや子ども専門の心理士さんは、「待つ」のがうまい。
「待つ」というより「見守り」だと僕は見ていて感じます。

子どもが自分で靴を履き始めたら、手を出さない。
つい、手が出てしまいそうなところ、どこ吹く風で待っている。

アドラー心理学的に言うと「他者の課題」の切り分けができています。
子どもに「魚を与える」のではなく、「魚を釣る方法を教える」の典型。

大人脳ですぐできることでも、子どもが自分でやり遂げてもらうのが、寄り道のようで最短距離。
自分の中のせっかちな気持ちとの格闘は、幼児を持った親の日常です。

さいごに

子どもと一緒にいると、親側には強瀬的に暇な時間(余白)が発生します。
僕は子どもを持つまで、仕事や遊びに、まるで暇な時間を悪と考えるがごとく、動き回っていた時期があります。
その2つの対極を経験して思うのが、時間を有効活用するとは何かを考えるようになりました。

忙しそうにふるまっているだけで、内実、たいしたことをしていない。
待ち時間に何もやってなさそうで、自分の中の深いところに潜る。

物理的に動けないときの方が、次の行動の準備が頭の中でたくさんでき、振り返る時間も多い。
制約状況でも、頭の中では無限に飛び回れる。
子どもを待つ間、あくびをしながら夢想できる時間です。