お土産不要論者の変心

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育児・子供観察

旅行に行ってお土産を買うか。
身の回り観測ですが、最近はお土産を配らない人が増えています。
職場でも、長期休暇を取る人は増えましたが、どこに行ったか話題にならない、質問しない雰囲気もあります。
他人のプライバシーに踏み込まない、セクハラやパワハラ回避の時代でもあります。

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お土産は不要

僕はお土産不要論者です。
正確には不要論者でした。

10代の頃は、自分のお金ではありませんでしたが、修学旅行などではお土産を買っていました。
自分がすごい旅をしてきのだ、と自己顕示欲全開で人に旅の話をしお土産を渡す。

聞く方は、ほぼ興味がないのだろうと思いますが「へぇーーー」くらいで、イヤイヤながら対応してくださっていた。
若気の至りの典型だった気もします。

その後、20代になり社会に出てから、僕はお土産を買うのをやめました。
理由は「自分でどこでも行ける時代、人にどこに行ったかわざわざ自慢するのもちょっと」と考えが変わったためです。

昔は、伊勢神宮参りに行くのに、村中のお金を集め、村の代表を決めて一人を送り出すくらい、旅のハードルは高かったと聞きます。
それが現代は、だれでも自分の意思で、一般的な場所であれば、どこにでも行ける。
どこに行ったか話したりお土産を渡すより、SNSで写真共有、コメントを残す方が現代風です。

僕はお土産を購入しなくなった20歳台を超え、わが家に子どもを迎えて、お土産もケースによってはアリかもと思うようになりました。

子どもと祖父が喜ぶ

ある時、祖父が何気なく、祖父の故郷の新潟に行った時「生どら焼き」をお土産に買ってきてくれました。
一応ですが「生どら焼き」とは、「どら焼き」に「生クリーム」が入っており、かなり甘い食べ物です。

「生どら焼き」は新潟銘菓でもないようなので、決して帰省先の銘菓ではないですが、何かのきっかけで祖父は購入したようです。
それをわが家の子どもが食べた。

その時までわが家の子どもは、どら焼きを人生で1度も食べたことがありませんでした。
いままで見たことがない食べ物を食べる子どもの姿は、おもしろかわいい。

知らない食べ物見せると、最初は「いらない」と拒否。
「おいしいのに」と言って、大人が一口ほおばると、興味深々、だけど警戒心も解いていない視線を投げかけてくる。

「一口だけ食べてみる?」と、小片にして口元まで持って行く。
すると小鳥がついばむように、ちょっと食べる。

上下の唇ではさんで、慎重に口の中にちょっとだけ入れて、もぐもぐもぐ。

ダメなとき(おいしくないと感じた時)は、うぇーと吐き出す。
可もなく不可もなくは、飲み込みますが、次のひとくちは拒否。
おいしい時は、目の前にあるすべてを抱え込んで、そればかり食べる。

わが家の子どもにとって、「生どら焼き」はおいしかたようで、僕が手に持っていたものも「ちょーだい」でした。

不動の4番バッター

それ以来、わが家の祖父は、帰省のたびに「生どら焼き」を、持ってきてくれるようになりました。
年に数回、他の新潟名産と呼ばれるお土産は変化しますが、「生どら焼き」だけは不動の毎回登場。
再度となりますが、「生どら焼き」は、祖父の故郷、新潟の名産ではありません。

それでも、祖父にとっての「生どら焼き」の存在は、孫との関係をつなぐもの。
孫の笑顔が見られる、食べ物以上のもののようでした。

お土産の本来の意味は、その土地のモノ、旅先の楽しみを分かつものだと僕は思っていました。
それが、わが家の祖父と子どもにとっては、両者を喜びでつなぐものになっている。

こんな姿を見ていると、これならお土産もありかも、と思うようになりました。
言葉の意味が、時代とともに変わるケースがあるように、現代のお土産の意味は、こういうものかもと思うようになりました。

モノのやり取なのか、心のやり取りなのかは別として、一般的互酬性でもありますが、精神性も含んでいると感じます。

物質的でもあり精神的でもあり

人類学で出てくる「互酬性」。

人類学において,贈答・交換が成立する原則の一つとみなされる概念。
有形無形にかかわらず,それが受取られたならば,その返礼が期待されるというもの。
アメリカの人類学者,M.サーリンズは互酬性を3つに分類した。
(1) 一般的互酬性 親族間で食物を分ち合う行為など,すぐにその返礼が実行されなくてもよいもの。
(2) 均衡的互酬性 与えられたものに対して,できるかぎり決った期限内に返済されることが期待されるもの。
(3) 否定的互酬性 みずからは何も与えず相手からは最大限に奪おうとするもの。

出典:互酬性(コトバンク)

上記のお話は、祖父から孫への食物を分かち合う行為で、まさしく上記の(1)に当たります。
ただ、上記の内容と違うと感じるのは、現代の祖父は孫から返礼を期待してないことが多い可能性。
もしくは、その場の孫の笑顔で、十分に返礼になっている。

「もう、ものはいらない」
高齢世代の何度も繰り返すこのつぶやきが、物の返礼はよほどの何かでなければ、効果は低い。

そんな中でも、孫の笑顔は、最上級の返礼品なのだと、僕は想像しています。

さいごに

一昔前の相互やりとりの1つ「年賀状」。
僕はすでに数年前に卒業した、正月のイベントです。

ただ、今年の正月に親戚のお宅に伺ったときに、意外なシーンに出会いました。
そこの中学生、高校生の子どものところに、友達から何枚も年賀状が届いている。

僕が所属している会社の20代の人たちは、口をそろえ「年賀状ゼロ」。
その下の世代も含め、若い世代は年賀状ゼロだと思い込んでいました。

僕が訪問したお宅の方針はスマホは高校生から。
中学生はまだスマホを持たせてもらえないので、年賀状のやりとりがあるのかと想像はできます。

とはいえ、その中学生が大学生になるころ、プライバシー観点からもお互いの住所を教えあうケースは限定的と予想できます。
結果、日本の年賀状は、右肩下がり確定で、何世代か後にはゼロになると僕は予想しています。

そして、職場でのお土産のやり取り、早くゼロにならないかとも思っています。