子どもをじっと見る

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育児・子供観察

長時間、人をじっと見つめる。
大人社会では失礼にあたるためできませんが、子どもをじっと見ることはあります。
大人になると、見られる経験は減少しますが、悲観するものでもなく。
子ども時分に養分を得て、大人になって社会に還元していくのも、1つの生き方です。

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子どもの園のイベントDVDが配布される

いまはコロナ過なので、子どもが通っている園で、さまざまな対応が取られています。
朝の検温や手の消毒など、平常時の風景も変わりました。

運動会などのイベントごとについても、外部業者が撮影したモノを各家庭1枚、DVDに焼いて配布する対応がなされました。
こうなった理由は、昨年まで参観者は何人でも良かったものが今年は人数制限がかかる。
密集を避けるため、今年は父母2名のみ、室内イベントでは1名のものもありました。

僕はこうした対応は賛成で、臨機応変な対応だと好感を持っていました。
園側はリスクを想定し、現実的な落としどころを見つける。

自分が園側の運営者だったなら、たくさんの参観者を一堂に集め、クラスター発生は避けたい。
しかし、子ども達にはできるかぎりこれまでと同じ経験を積ませたい。
楽しみにしている、父兄・祖父母もいる。

コロナ過は、これまで毎年やっていたから単にやるではなく、それにが意味があるのかを初心に帰って考えてみる事象だったと思います。
それでも、長年培ってきたことの重み、毎年少しずつ改善してきた磨き上げあられた良さはある。
リスクとメリットのバランスポイントはどこなのか。

こんな会議があったのかは分かりませんが、今年、わが家には「お遊戯会」のDVDが配布されました。

自分の子どもを目で追いかけ続ける

そもそも、僕はわが家の子どもと同じクラスの子どもの顔は、まったく分かりません。
子どもとの会話で、何人かの友達の名前を知っていますが、顔とは一致しない。
この前提で、お遊戯会のDVDを見ました。

自分の子どもが出ているシーンでは、他の子どもがセリフをいう場面でも、僕の視点の90%は自分の子どもにフォーカスしていました。
相手が大人であれば、ストーカーレベルの凝視です。

普段、これほど1人の人を見続けることはないので、新鮮な気づきはありました。
他の子どものセリフの場面で、わが家の子どもがどんな姿勢・動きをしたか。
きっとこんなことを考えているのだ、と頭の中で想像してみる。

人より先に、次のアクションのために場所に移動しているのであれば、予測能力が高いのか。
列からはみ出そうな子どもの腕を引っ張り列に戻すのは、全体俯瞰ができているのか。
周りの子どもを見て動くのではなく、その場面で決められた動きを能動的にできているのは、記憶力・再現力があるのか。

蒸気をわが家の子どもができていた、というお話ではありません。
一人をじっと見ていると、普段、見過ごすような行動が把握できる。

そこから、その子の個性を再確認・再発見できます。

養分を得る時期

大人になって、他人をじっと観察するシーンはそれほど思いつきません。
あるとするなら、好きな役者さんを観劇するとき、その人をずっと視線で追いかけているなどは想像できます。
それ以外に、人を凝視するのは、たいていは失礼にあたります。

ただ、役者をじっと見ていても、役者の性格は分かりません。
役者はプロで、動きは決まっており、技術を魅せてくれるものです。

対し、子どもの動きは「素」に近い部分がたくさん出ています。
うまくできていないことが当たり前で、それゆえのもろもろがおもしろい。

だれかがセリフを忘れて、変な間(ま)ができても、だれも咎めません。
セリフが棒読みなのも普通。
動きも雑然として、隣の友達の後をついていく子や、一人取り残されるなど。
どれも、その子の性格・特質が表れます。

大人でも上司と部下の関係だと、上司が見ていない振りをして、みていることはあります。
とはいえ、時代はドライ方向で、異性の場合はセクハラ通報リスクも考えると、アイコンタクトの少ない日本社会では特に、見続けるのは現実的ではありません。

しかし、子どもは文字通り「見られる対象」になりやすい。
両親から、祖父母から、園の先生から、友達のママ達から。

見られ続けることに、子どもはどこかで恥ずかしがり出しますが、大人側はからかい半分で見続けます。
このたくさんの愛情をこもった目で見られることは、その子の根っこの部分の養分になる。
根拠はありませんが、人間にとってあったほうが良いものだと僕は考えています。

他人から養分を得られる時期は、子ども時代が最高値で、大人になれば減少していきます。
大人になって、人から叱られる経験が減っていくのが典型例です。

人からの関心が減っていく中で、空気を読みつつ、存在感を出していく。

自分が世界の中心と思わなくてよい

大人になって、自分が世界の中心と思い込める人は、一般的には少ないはず。
ベンチャー起業するような人は、そういう人もいますが、割合から言ってもマイノリティです。

たいていの人は社会にもまれ、自分の限界をどこかで察し、社会の構成員の一人になります。
出すぎる杭になるわけではなく、周囲に配慮して、自分の能力を活用できる場所を目指す。

「社畜」と物言いがあります。

社畜(しゃちく)とは、主に日本で、社員として勤めている会社に飼い慣らされ、自分の意思と良心を放棄し、サービス残業や転勤もいとわない奴隷(家畜)と化した賃金労働者の状態を揶揄、あるいは自嘲する言葉である。

出典:社畜(wiki)

僕は否定的な言葉だと受け止めていますが、自分の力で収入を得ている点で、他人に否定されるものではありません。
自分と自分の家族が生活するため、働いていても働いていなくでも、外貨を稼いでいる人は正しい。
稼ぐという事はだれかの役に立っており、税金も払っています。

大半はだれかと協業して、何かを成し遂げていく。
人との協調は、基本中の基本です。

少し前に「空気なんか読むな」と、逆張りしている説もありましたが、一般的には空気は読むもの。
結果を残す人は、空気を読んでそこから意図的に外れることはありますが、基本は不必要な軋轢から距離を置く。

園のイベントは、社会性を身に着ける狙いもあると、僕は考えています。
個人的には、子どもが空気を読みつつ、全体を俯瞰して見られる経験になれば、さらに良いと思っています。

さいごに

何人かのメンバーで、自分達でシナリオを考え、実際に演じる授業をすると、それまで受け身だった子どもたちが、目を輝かせるという話を読みました。

僕はこのお話に同意で、自分で動いたものは、自分の中に残りやすいと考えています。
良く言う当事者意識です。
そして当事者は、何より楽しい。

役を演じるのは、自分ではないだれかの人生を経験すること。
子育ても、人生を子どもの目線で経験できる、代えがたいものです。