イソップ物語(寓話)の『アリとキリギリス』は、たいていの方は知っている物語。
その解釈(教訓)がいかに残酷なのか、ということまで考えたことは僕はありませんでした。
イソップ物語自体、残酷な内容のものもありますが、今回はその中のアリの行動について。
違う視点で見てみると、見えるものがあります。
アリとキリギリスのあらすじ
夏の間、キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌って過ごし、アリは越冬準備でせっせと食料を蓄える。
冬になり、キリギリスは食べ物がなくなり、アリに食べ物を分けてほしいと言う。
アリは夏の準備を怠ったキリギリスが悪いと言う。
このあらすじは、たいていの方はご存知かと思います。
この物語の教訓で一般的に言われているのが「遊んでばなりいないで、先を見据え準備すること」。
言い換えると「計画と準備」、現代風に結びつけるなら「自己責任」がつながるかもしれません。
アリのコツコツ思想は、嫌なことに対しての我慢適性もあると僕は読んでいます。
本当はキリギリスのように遊びたいが、現実(冬の食料)を考えると、食べ物を集める必要がある。
余談ですが、もともとは「アリとキリギリス」ではなく、「アリとセミ」が登場人物(昆虫)でした。
セミがヨーロッパの北部にいないため、世界へ広がる段階で生息地域が広いキリギリスに代わりました。
キリギリスがどうなったかというエンディングはいくつかのバリエーションがあります。
3つのエンディングバリエーション
▼[エンディングパターン1] 飢え死に
アリはキリギリスに食べ物を分け与えないで、キリギリスは餓死する。
▼[エンディングパターン2] キリギリスは食料を分けてもらい改心
1度は食料を分けることを断るアリだが、気の毒に思い食べ物を分ける。
キリギリスは大変喜び、翌年の夏からはまじめに働くようになる。
▼[エンディングパターン3] 歌を歌って死ぬ
アリは「夏の間、歌ったのなら、今度は冬の間、踊ればいいんじゃないですか?」と言い食べ物を分けない。
キリギリスは歌を歌ったあと『歌いつくした。私の亡骸を食べて、生きのびればいい。』という。
寓話は長い歴史を経て、さまざまなバリエーションがあるものもあります。
上の3つも、一例なのかもしれません。
もう一つの教訓(寓意)である「世の中の冷たさ」
「計画と準備」意外に、あまり知られていない(と僕は思っている)もう1つの教訓が以下です。
「アリのように蓄えを持つ誰かがいたとしても、その人が救いの手を差し伸べるとは限らない」
僕は最近までこの教訓まで思い至らず、この点についてルソーは以下のように評しています。
次の寓話では、 あなた方は蟻の例を見て考えさせようとするのだが、そんなことはしないで、 子どもは好んで蟻を見習うことになる。
人は他人に頭を下げることを好まない。
子どもはいつも輝かしい役割を演じようとする。
それは自尊心からくる選択で、 ごく自然な選択だ。
ところで、 これは子どもに対して何という恐ろしい教訓だろう。
あらゆる怪物の中でもっともいとわしい怪物は、けちんぼで情け知らずの子ども、 他人が自分の何を求めているかを知りながらそれを拒絶するような子どもだ。
蟻はもっとひどいことをする。
蟻は拒絶した上で相手を嘲笑うことを子どもに教えているのだ。
言われてみると食料を分けないアリは「残酷」と言われても仕方がないのかもしません。
「友達が大事」や「分けっこしよーね」と子ども時代、いろいろな場所で言われますが、この言葉と反しないのか。
友達は仲間(この場合アリ)だけで、キリギリスは友達ではないという発想になのか。
子どもに「アリとキリギリス」を読み聞かせするうえで、この2つ目の教訓は「一緒に考える」にはうってつけなネタだと思います。
さらに「アリかキリギリスのどちらか」ではなく、「アリとキリギリスの両方」という視点も、考えるには面白いと思っています。
さいごに
現在の蟻は昔は人間でした。
そうして農業に専念しましたが、 自分の労働の結果では満足しないで、他人のものにまで始終の目を向けて隣人たちの果実を盗んでばかりいました。
ゼウスは彼の欲張りなのにお腹立ちになって、その姿を蟻と言われているこの動物にお変えになりました。
しかし彼はその姿を変えてもその気質は変えませんでした。
というのは今日に至るまで彼は田畑を這い回って他人の小麦や大麦をかき集めて、 自分のために蓄えるのですから。
この話は、 生まれつき悪い人々は非常にひどく懲らしめられても、 その性格を変えない、 ということは明らかにしています。出典:イソップ寓話集240 蟻
イソップ物語の作者の意図は分かりませんが、人間の負の面を書きたかったのではと想像します。
アリのような状態なのか、考える葦になるのか。
僕はある時、友人の行動に感化というか、いまの自分の行動規範の1つになった経験をしました。
それは「全面的に僕に非があることなのに、無関係の第三者の友人が自分のこととして受け止め、その友人がお金を出して解決しようとしてくれた」こと。
この時は、僕は(当然)自分でお金を払って解決しましたが、その真剣な姿勢に「こんな人いるんだ」と衝撃を受けました。
僕は自分が大人になり、社会の中でたくさんの人との関係の中で生きている、と深く考えるようになりました。
社会はどんどん細分化が進み、一人一人の役割や仕事は一部分で、お互いが共存という状態。
仮に、その中で金銭的に裕福になれた場合、それをうまく使えるか(分け与えられるか)。
それ以前に、お金持ちであるかないかに関わらず、周りに人々に配慮できているか。
道なかばです。