生まれながらの正義の味方

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育児・子供観察

自分の正義を、一点の疑いもなく主張する。
大人であれば考え物ですが、子どもの大半はそういう時期があります。
相手を考えられていない状況でもありますが、それを小さな子どもに求めるの酷。
親として、過敏になりすぎないよう、見守りたいです。

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子どもは正義が大好き

1975年に始まった戦隊ものの初代「ゴレンジャー」。
いまも戦隊ものが続いていることは、男の子がいるご家庭ならご存知かと思います。
2019年は第43代として「騎士竜戦隊リュウソウジャー」が放映されています。

僕は男で、小学校入学前後は、どっぷり戦隊ものにはまっていました。
友達と木の枝などを武器に見立て、「オレ、赤色(リーダー格)」「じゃあおれ青」といって、悪役ゼロのごっこ遊び。
だれも悪役をやりたがりませんでした。

時代は流れ、現代でも小学校以下の親せきの子どもなどに正義か悪かを選ばせると、100%正義を選びます。
わが家の子どもも一部の隙もなく、即座に「いいもの」を選ぶその迷いのなさは、まるで太陽が東から登るくらい当たり前。

あるとき、僕は「何で子どもは正義を選ぶのだろう」と疑問を持ちました。
哲学的な「アプリオリ(経験する前から知っているもの)」みたいなものもなのかと軽くネットで調べていたら、京都大学に1つの研究結果がありました。

正義OSが子どもにインストールされている

京都大学の明和政子教授、鹿子木康弘同特定助教、David Butler同特別研究員らの研究チームが実験を行いました。
対象は乳児(前言語期)で、6つの実験を実施。
その結果、弱者を助ける正義の行為を肯定する傾向が発達の早期にすでにあるとのことです。

本研究グループは、正義の概念の原型は発達の早期にすでに認められると仮定し、乳児を対象に六つの実験を行いました。
その結果、ヒトは生後早期から、攻撃者、犠牲者、正義の味方の関係性を理解し、正義の味方のような行為を肯定する傾向を持つことが分かりました。正義の行為を理解し肯定する傾向は、学習の結果というよりも、ヒトに生来的に備わっている性質である可能性が高いと言えます。

出典:心に刻み込まれた正義 -乳児は弱者を助ける正義の味方を肯定する- (京都大学)

実験対象が、生後半年の子どもで、実験内容が攻撃を認識して止めるというもの。
この結果が子どもが正義を選ぶと言ってよいのか微妙と思いましたが、否定もできず。

この結論を受け入れると、「人間は生まれた段階で正義好き」のようです。
ただ、強すぎる正義感も、自分も他人も不幸になるかもしれないと思っています。

他人を圧倒する正義感を振りかざす人の迷走

僕自身、自分の子どもの頃、悪いことをしているクラスメイトを見て、先生に言いつけた記憶があります。
これが正義感なのか微妙ですが、いま、考えると痛いヤツなので、立ちまわり方を考えなさい、と説教したくなります。

記憶を探ると、多分、だれでも正義感が強くて、浮いていたクラスメイトがいた記憶があるのではないでしょうか。
僕は自分がそこまで浮いていないと、美化した記憶を持っていますが、そんな僕にも思い当たるクラスメイトがいました。
小学校5年生のときの、A君(仮名)です。

A君は、だれが見ても正義の塊。
A君の判断で悪いことは、絶対に見逃さない人でした。

掃除をさぼる人。
人の悪口を言う人。
学校帰りに、学校からの帰り道、通学路から外れて遊んでいる人。

A君はそういう人を見つけると、本人に向かって、いつもより大きな声で「それはいけないことなんだ!」と主張。
言われた側は、自分に非があるのを認識しているので、たいてい「おい、いこーぜ」と撤退します。
A君の良かった点は、それ以上深追い「親や先生に言いつけてやる」などと言いませんでした。
この点でも、僕より公平というか、自立している人でした。

その後、A君と僕は別々の学校に進学、風のうわさで聞いたところによると、A君は高校時代にいじめにあって孤立。
極度の潔癖症のような状態になり、ひとが触ったものが使えなくなった、と聞きました。
彼に何があったのかわかりませんが、彼がそうなってしまった原因の1つは、強すぎる正義感だったのかもと想像します。

過ぎたるは猶及ばざるが如しではないですが、バランス(中庸、しなり)は生きる強さだと、僕は思っています。
小さな事には目をつぶり、大きな結果を成し遂げる。
それが処世術と言えばそうかもしれませんが、現実はこうしたことにあふれています。

そうでなくとも、視野が狭く、自分本位になりがちなのが子どもの特性でもあります。
それゆえ、僕はわが家の子どもと遊んでいる時、あえて「子どもの考えの枠外」を意識します。

子どもの思考の枠外を狙う

親子で、子どもが警察、僕が泥棒の役回りで、遊んでいるとします。
オーソドックスパターンでは、泥棒がおっかけられて、警察に捕まる。
僕は捕まったとき、なるべく毎回違うパターンの泥棒役を演じようと試みます。

泥棒さんは警察に捕まって、良い人になってしまいました
泥棒さんは警察のすきな食べ物を持ってきて一生に食べようと言い出しました
泥棒さんはロケットに乗って、宇宙に飛んで行ってしまいました

子どもは自分が予想していなかった行動を僕がとると、1テンポ、停止します。
子どものシンキングタイム。
頭の中でカシャカシャ、「こんぴゅーた」が動いているのようなイメージがほほえましい。

子どもの答えは、時々によって変わります。
そのまま「いーよ」受け入れたり、「そうじゃない」と反抗したり。
年齢が上がるほど、そのバリエーションも多彩になり、言い訳のようなものも交じります。

どんな回答にせよ、このときに僕が気を付けているのは、できる限りしゃべらせる。
否定でも良いですし、突拍子もない回答もウェルカム。
そして、なんでそう思ったのかの拡大質問。

おかしな回答かも、と思っても、それは大人のかつ僕個人の判断基準。
特に幼少期は、自由に何でも考え、どんどん話してほしい。
少しくらいわがままでもおかしくても、僕はたいていは、大丈夫だと思っています。
ダメな点はなぜダメなのか、理由を説明して止めることもありますが、できるだけそのまま受け入れたい。

それでも、先ほどのA君のようなケースは難しい。
明らかに社会生活でマイナスになるような予想ができるときは、子どもと未来予測を話してみる。

重要なのは、親がどっしり受け止めてくれる姿勢かと考えています。

さいごに

「なんるくないさ」という沖縄の有名な方言があります。
僕は「なんとかなるさ」という意味だと思っていて、壁にぶち当たった時に自分に言い聞かせることもありました。
地球全体からみたら、こんなのたいしたことない、なんくるないさーのような使い方です。
しかしこの「なんくるないさ」は、もっと深い意味があると知りました。

「なんくるないさ」は楽観的な意味としての「何とかなる」ではない。
本来は「まくとぅそーけー(正しいこと)」という言葉が「なんくるないさ」の前にある。
本人が正しいことを続けていれば大丈夫、という意味。
そして、壁にぶつかった本人が使うのではなく、周囲が本人に向かって発する言葉。
正しいことをしていれば何とかなる、という言葉(祈り)を、へこんでいる当人に慈愛とともに周囲が差し伸べる。

このように、自分の勘違いでもあり、意訳したような意味でとらえている言葉に、大人になっても出会います。
言葉の意味を取り違えることは、僕は問題だと思っておらず、本来の意味があれば、素直に受け入るだけです。
ただ、無知の知を認識するのは、人生を乗り越えていくうえで、1つのコツかもしれません。

子どもが好きなアニメの歌などを、言い間違えで覚えていることがあります。
毎回、同じ場所で間違えるのですが、本人はいたって楽しそうに歌っている。
聞いているこちらも、くるぞくるぞ、キター!と楽しめるアレです。

この言い間違い、年齢が上がるとほぼなくなるので、幼少期の期間限定の楽しみです。