平凡か異端か

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育児・子供観察

小さな子どもが撮った写真に味がある。
それは、パターン化に対するアンチテーゼのような気もします。
人間の顔が半分しか映っていない写真でも、グッと惹かれる。
何でも大人脳で処理するのが、単に楽をしているだけと思うことが僕はあります。

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いまの動画撮影機器はどれも高性能

子どもの幼稚園・保育園の「お遊戯会」に、どのカメラを持って行くか。

ビデオカメラ、デジカメの動画、スマホ、いまは選択肢がたくさんあります。
最近のデジタル機器は、小型高性能なので、距離を考えなければそれなりの映像が撮れます。
僕の家では、これら機器すべて持っていませんが、近くに住む親戚がフルセット装備しており、借りられる状況でした。

僕の子どもが通っている園では、子どもが所属しているクラス毎に、観覧側の保護者が入れ替わり制。
人数も、園児数1人当たり、2人の保護者までという制約付いていました。
実際に、開場となる舞台がある体育館も、入園式参観しているのでサイズ感が分かっている、

これらを総合的に判断して、僕は今回の観覧は、比較的余裕があると予想しました。
そして、持って行くカメラはデジカメと、いつも持っているスマホ。

これらを選択した理由は、手軽で身軽である点。
また、カメラの三脚を持って行きませんでした。
理由は、観客側がそれほど多くなくとも、三脚を立てられない環境だと予想したためです。

お遊戯会でも最前列は三脚が使える

撮影ポイント争奪戦も予想できましたが、当日は観覧車入場時間より15分早めに到着して無事、最前列の一角を確保。

そこで気づいたのですが、最前列に陣取れば、目の前は開いているので低い三脚は使える。
実際、僕以外の最前列確保者は、みんな三脚装備でした。

実際、演技が始まって、僕は手持ちでカメラを操作。
カメラのフレームに子どもを収めないといけないので、必然、僕の視線はカメラの液晶ディスプレーを見ています。

カメラを持って、動画を録画すれば、後から見返したり、祖父母に見せられます。
それが狙いなので当たり前なのですが、ライブの動きを肉眼で観たかった気持ちも否めません。

三脚があれば、カメラは固定して、たまに操作するだけで、放置できた。
たいした差がないと言われればそうですが、1つ、今後に生かせる経験でした。

ただ、素人の固定映像なので、出来上がりは想像通りです。

子どもが撮影した写真の融通無碍

どれくらいの子どもが、カメラで写真を撮る行為に夢中になるのか。
身の回り観測では、ほぼ全員が一度はハマっています。

子どもが、カメラの存在を知って、自分がシャッターを押せるようになるころ。
カメラを出した途端、「自分が撮る」と言って、カメラにしがみ付く。

いまの30歳以下の方はほぼ知らないと思いますが、昔はカメラは「フィルム」撮影でした。
1本24枚や36枚しかとれないフィルムで撮影し、現像しないと見ることもできない。
必然、撮影するにはお金がかかるものなので、適当にパシャパシャ撮る人はいませんでした。
それがいまのデジカメは、撮影と見るだけなら、ほぼ無料。

コストがかならない真理ハードルの低さもあり、子どもの機嫌を損ねない点が重要なため、ひとまずカメラを渡す。
裏には「興味があるものは、積極的にやらせる」の意味もあります。
もしかすると、芸術的センスも養われるかも、と期待するのは宝くじに当たるのを望むようなものかもしれません。

デジカメの背面液晶に映っている画像が、撮影画像と認識できず、ただシャッターを押すだけなどの微笑ましい状況も発生します。
あとは、写真を撮っているときのへっぴり腰も、おもしろかわいい姿。
本人は撮影に夢中なので、自分の姿など、1ミリも考えの中にないのが小さな子ども。

取りたいものに近づいてパチリ。
何度も何度も同じシーンを取ったり。
構図もアングルも無関係の写真が写っています。

それを見ていて、パンフレット写真には使えないが、たまに惹かれる写真があるのも事実です。

型にはまる危険性

自分の子どもの撮影した写真なので、「あばたもえくぼ」の親バカパワーは前提にあります。
知らない大人が撮影したピンボケ画像など、よほどの芸術性がなければ、見向きもしないのが普通。
それが自分の子どもの写真は「味があるねぇ」と勝手に味付け解釈するのが、親の凄さです。

自分が培ってきた写真の正解のようなものからみると、子どもの写真は形が無い。
あえて「型がない」と記載したのは、文字通り基本がない。
歌舞伎の世界で言う「型がない」であり、「型破り」ではありません。

自分なら写真を撮るとき水平を意識して、被写体のどの部分をフレームに入れるか考える。
それが子どもはときに被写体に近づきすぎたり、ものすごい切り取り方をする。

その融通無碍さは、これくらい自由でも良いんだよ、と訴えかけているような。

大人の論理を、子どもの年齢のどのタイミングで、学ばせていくのか。
型にはめすぎて、自由な発想を阻害してしまわないか

大人になっても、一定の自由さを持っている人を見ると、何が理想的か考えてしまいます。

芸術家の妙

僕の知人で絵描きの方がおり、いまでも大きな絵画展の受賞されています。
その人が撮影する写真は、やはり味がある。

本人に「意図して写真を撮ったのですか?」と聞くと、普通に「そうだ」と答えます。
「普通の人だと、普通のアングルの写真を撮るけど、私は違った写真を撮りたいと、意識しています」と続けます。

この人が芸術家と呼んでよいのか、僕にはわかりません。
僕自身、芸術が何かまったく言語化できていない上に、自分にそうした才能はほぼないと思っています。
黄金律のようなものかもしれませんし、一定の経験の上に審美眼が養われるのかもしれない。

好きなことに集中できる芸術家が幸せか、僕には回答が出せていません。
その上で、子どもが芸術家になりたいといったら、それを後押しできるか。

さいごに

定型と不定形、どちらが理想か、正解はありません。
守破離で考えると、学ぶ時期は必要ですし、その先に花が咲くのも納得です。

ただ、歴史に残るような発明は、既存の考えの延長線上でなないのも確か。
あとから聞けば「なんだ、そんなことか」でも、それを思いつく発想はどうやったら培われるか。

長時間考え続ければ良いものができるのではなく、その上でさらにひらめきが下りてくるために。
最低限「前提が正しいか問い続ける」のは、必要だと僕は考えています。

子どもの「何で?」攻撃は、ときにうっとおしいです。
「君はどう思うの?」返答が理想だったとしても、思考停止になりがちな大人にとっても、考えるための良い材料です。