Nobody’s perfect

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育児・子供観察

人は不完全。
だれもが知っていて、子育てでも痛感する1つの認識です。
子育てでは、思い通りにならない経験を膨大に積み重ね、たいていの親は自分の出来をそこそこに見積もっている。
さらに踏み込んで、自分が虐待する可能性があると考えておくのは、人間らしい行為です。

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子どもと一緒にいる時間

わが家は意図的にも偶然要因もあり、われわれ夫婦と子どもが一緒にいる時間を、意識して作っています。

僕が平日、会社に出社していた時期は、平日は子どもと遊ぶ時間が限られます。
それがコロナで、(偶然)僕が在宅勤務になりました。
その結果、良く言われている通り、平日、子どもと一緒にいる時間が劇的に増えました。
仕事中に、子どもが僕の仕事部屋にたまに遊びに来ることもありますが、会議中などはわきまえてくれているので許容範囲。
業務後は、僕が子どもと遊んでいる時、平日に僕の奥様がわずかでもフリーな時間ができるなど、わが家には在宅勤務が福音になりました。

意図的な要素は、いくつかあります。
まずは、負荷分散。
子どもにとって、遊び相手が複数いれば、片側(の親)が相手をしている時は、もう片側は休止モードになれます。
これは片側と外に遊びに行っている時も、含まれます。
乳児期の代わりばんこで、睡眠をむさぼる名残かもしれません。

楽しみ視点では「子どもが離れていくのはあっという間」という先人たちの教えが、われわれ夫婦の中の頭にある。
この時間は、いましか味わえない取り返しのつかないモノなので、一時、自分たちの夫婦の生活が子どもに占拠されても、積極的に受け入れる。
乳児期は、文字通り子どもに時間をもぎ取られますが、過ぎれば良い思い出です。

子どもにとっては、両親がそろって相手してくれるのはうれしいようで、自宅内も一緒に出掛けるのも大きく賛成。
片側の親とも問題なく出かますが、両親がそろっている時は安心感が強い印象です。

これ以外に、虐待防止視点も、僕は僕の奥様と話していました。

自分は信用できない

自分が虐待するわけがないと、僕は言い切る自信がありません。
そう言い切る人がいるなら、僕はその人とは距離を取りたいスタンスです。

人間の不完全性を、自分のこれまでの人生で、山ほど積み上げてきている。
いい歳をしたオッサンになっても、何だなかなあ、と思うことがそこかしこに存在している。

虐待する人は、貧困家庭であったり生育環境(自分が昔、虐待された経験)などのお話を見聞きします。
しかし、自分が育児を経験してみて「これは、本当に精神的にハードだな」と思う状況が実際にありました。
それを知ると、貧困などの環境要因だけでなく、ごく普通の家庭であっても虐待する可能性ががある。
日常をなんとか回していて、あるときダークサイドに落ちてしまったケースもあると思っています。

自分たちが虐待加害者になる崖っぷちにいる前提でいよう、と僕は僕の奥様と話しました。

虐待は、単独の大人と子どもが、密閉された空間で発生しやすい。
夫婦のパワーバランスが崩れているなら抑止力にはなりませんが、一定の関係値を持った夫婦であれば、夫婦と子どもがいる場で、虐待は発生しにくい。

夫婦で子どもといる、1つの効用になります。

ワンオペ育児ならどうするのか

ワンオペ育児も虐待を誘発するなら、対策をあらかじめ考えておくのも1つ。
この文章は、ワンオペ育児の話ではないのでそこには触れません。
現実は、いまはチーム育児が主流、と言いたいですが、日本はまだそうはなっていません。

話を戻して、ワンオペ虐待対策として、あらかじめルールを決める。
週末はワンオペ側ではない、放置側(一般的には父親)が、子どもとお風呂に入る。
せめて、お風呂くらいは入れてくれる父親であることが、前提ですが。

お風呂に入れば、裸になるので全身があらわになり、身体的な虐待の兆候が見て取れる。
虐待が始まったあとに、こうしたルールが通られませんので、早い段階でこのルールを決めて曲げない。

母親は、子どもの裸を見る機会は、平日のお風呂やそのほかでそれなりにあると思います。
虐待チェック以前に、子どもの健康チェック機構として、母親にとっては日常ルーチンだと思います。

とは言え、お風呂確認では、精神的な虐待には効果が薄い。
子どもが自分で「精神的虐待を受けていると」言えれば良いですが、そこは難しい。
以下は厳しい情報ですが、世の中は身体的虐待より、精神的虐待の方が多くなっています。

出典:児童相談所での虐待相談の内容別件数の推移(厚生労働省)

子どもにとって、複数の逃げ場(両親や先生など)がある状況を作って、だれかがアラートに気づく。
完璧は無理でも、できる限りの何かをしたいと考えるのは、たいていの親が首肯する内容です。

不完全が前提

Google社の社是に「Don’t be evil(邪悪になるな)」があるのは、有名なお話です。
世界最上位のIT企業が、精神論を指針(ビジョン)の1つに掲げている。
僕はこれを知ったとき、組織の暴走の抑止力として、自分たちの不完全性を認識していると読みました。

世の中のニュースを見れば、外野から見ると「ひどいな」と思える問題が、組織個人問わず、いくらでもあります。
問題を起こしていないところは、ただ爆発前の可能性もありますが、事前に防止策を講じているところもある。

子育ても例外ではなく、親は人間なので、エラーが発生する前提で動く。
トラウマが存在するかは議論がありますが、将来にわたってマイナス印象を子どもに植え付けるようなものを、望む親はいません。

自分たちがヒューマンエラーを「絶対に起こす」と考える。
できるだけ、その対策を打っておく。

先回りしすぎて子どもの経験機会(失敗経験)を奪うのはいただけませんが、大人は自分の行動に責任を持つためにも、事前予測と対策行動は肝要です。

さいごに

子どもと親が一緒にいる時間が長い、そこにメリットとデメリットはあります。

メリットとして、一緒にいると、親子がお互いのやり方や特徴を掴む。
できるなら、子どもが言葉にしない内容も、察する親になる。
これは、一定の精算時間がないと、比較材料もなく実現できません。

デメリットは、良く言われる、過保護やヘリコプターペアレンツがすぐに思い浮かびます。
言い換えると、子どもの自立の妨げになる親になる危険性。
たとえば中学生になっても、親が子どもの服を着せているような状況ならその先は厳しいでしょうが、小学校入学前あたりまでは個人差もあり、危険性よりもメリットが勝つと僕は考えています。

どんな関係性であっても、子どもが「何かあれば、親は本気で聞いてくれる」と思ってもらえれば、親冥利に尽きます。