モノを壊すのも生きたお金

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育児・子供観察

子どもがどれだけモノを壊すのを許容するか。
親の胆力が試される場面です。
「失敗の経験」と考えるとプラス、「物質的」にはマイナス。
「モノより思い出」のコピーは、親になると実感します。

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祖父母宅でモノを壊しそうになる

機会があると訪問する、祖父母の家。
ジジババにとって孫が特別なのは、見ていて嫌と言うほど理解できます。

ジジババが「オモチャ、買ってあげる」のモノで子どもを釣るような行為も、見て見ぬ振り。
親孝行の言い訳つ立てて、こちらの懐が痛まない腹黒さを隠します。

子どもは祖父母宅に行くと、いつもと違う場所でテンションが上がります。
もちろん「今回はあれ(オモチャ)を買ってもらおう」の子どもの計算も、興奮にガソリン投入です。

子どもは祖父母宅で走り回ったり、ガラス扉の食器を開けてみたり。
親としては、モノを壊してしまわないか、ヒヤヒヤします。

壊す経験も大事

「コラ、それは触っちゃダメでしょ」
僕が食器を割ってしまうのを恐れ、我慢できず、つい発言してしまう。

すると祖父母は、懐深い否定をします。
「壊すのも経験。壊してみないと分からない。やらせれば良いよ。」

文字面では同意です。
しかし、自宅ではない場所で、全面賛成できないのが、自分の弱さとも思います。

では、自宅で同じ状況で「壊してよい」と、見て見ぬ振りできるかと想像してみると。
また買い直す労力も含め、金銭的損失が頭をよぎる時点で、自分の平凡さを感じます。

では、自宅でもなく祖父母宅でもなく、子どもの友達の家に行ってモノを壊したら。

一貫性のなさ

わが家の子どもが、友達の家で家財を壊したら、僕は謝罪して弁償します。
子どもに「こうすると、壊れるんだね。人のモノを壊したら、ゴメンして元に戻すんだよ(=物品対価を払う)」
コレはこれで良い「学び」だと思います。

逆に、子どもの友達がわが家に訪れて、何か壊したら。
よほど高価なものでなければ「大丈夫ですよ」と自分は言う気がします。
子どものやったことだし、子どもが「何かを掴む機会」になったのであれば、それは良し。

綺麗ごとのようで、言葉で並べてみると、正反対の2つの行動です。
ただ、たいていの子どもの親も、こんな行動に出るのではと、周りを見ていて想像できます。

歳をとって、自分の中でモノに対する執着が、薄れていっている点もベースにあります。

生きたお金

僕が子どもを持つ以前、自分の持ち物を小さな子どもに壊されたら。
高価なものでなければ、ムスッと無言で、または一言くらい嫌味を言って、その場を離れていたかもしれません。
実際は、そういうシチュエーションが無かった、もしくは記憶に残っていないので分かりません。

それがいまは本心で「まぁ、いいよ。うん。大丈夫だ。」と言う自分が想像できる。
だからと言って、モノを適当に扱うようになるのはナンセンス。
子どもに「モノを投げちゃダメです」と言って、自分がモノを乱雑に扱っては、その言葉は子どもに届きません。

僕は成人してから「生きたお金の使い方」を、考えるようになりました。
自分や周囲の人が喜んだり、未来につながるようなお金の使い方が、お金を「生かせた」と思っています。
それは高額品ではなく、誰かとゆっくり食事をするなどが、その典型です。

生活していれば、お茶碗を落として割ってしまうのは、日常で発生します。
意図的に壊すのでなければ、人間の不完全さから、それは当たり前。
そしてモノを壊す経験は、子どもにとって大切な財産になり得ます。

子どもがモノを壊したとき、次に生かせるような振り返りができるのであれば、それは「お金を生かしているな」と考えるようになりました。

さいごに

わが家の子どもが祖父母宅で、テレビ台の開き戸に指を挟まれました。
子どもらしいと言えばそうですが、指が入るのかなと入れてみて、出せなくなって号泣。
自分の記憶も含め、良くある話です。

子どもの泣き声を聞いた祖父は、工具のドライバーを持って、飛んできて一言。
「テレビ台、壊れてもいいから、子どもが痛くないように指を抜け!」
冒頭の祖父の「モノなんか壊れてもいい」発言が、上っ面だけではなく本心だと分かる一コマでした。

いまの子育て世代の祖父母は、年齢的に人生の終末期です。
もうモノが不要なのは、かなり同意できる年齢に僕もなりました。

目の前で、目の中に入れても痛くない孫が、痛がって泣いている。
それは祖父母にとって、リアルなの痛みなのだと、分かります。