お遊戯会で踊らない子がいても良い

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育児・子供観察

集団からはみ出る子ども。
子どもにとって初めての集団行為かもしれない「お遊戯会」は、そうした子が出る1つの場面です。
うまく踊れる子も、ちょっと外れる子もいる。
子どもが踊らないことは、本人含めだれの責任でもなく、問題ですらありません。

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お遊戯会で踊らない子

保育園・幼稚園の大きなイベントの1つ「お遊戯会」。
参観する親は楽しみですが、子どもにとっては試練かもしれません。

ライトアップされた舞台で、大人数の大人の視線を浴びる。
決められた踊りを、集団で合わせる。
緊張して動けなくなる子がいるのも、うなずけます。

余談ですが「年少のお遊戯会は記憶に残らない子どもが多い」と園の先生のお話を聞きました。
年中や年長になると記憶にしっかりするが、年少お遊戯会記憶を聞くと、答えられない子が多いらしい。

それはさておき、お遊戯会は各学年で、難易度も違います。
歳が上がるにつれて、動きが複雑になり、お遊戯ではなく劇となったり。

そして、たいてい1人は存在する「ほぼ参加しない子」。
僕が見たお遊戯会でも、そうした子がいました。

話を聞いてみると

その子は年少で、皆が歌って踊るオーソドックスなお遊戯のメンバーの一人。
幕が上がったときから、ポツンと集団から離れて立っていました。

音楽が始まっても動かず、じっと1点を見つめている。
その視線の先に親がいるのか、何か別の想いがあるのか。

動かないこともそうですが、その子の表情が乏しい点は気になりました。
単に緊張しているだけなのか、無表情の一点凝視。
大人脳ではやらない、アリの行列を見つめる子どもに近いような。

帰宅後、僕は僕の奥様と、この踊らなかった子の話をしました。
すると、僕の奥様はその子に関する情報を少し持っていました。

曰く、その子の親が影響を与えている可能性がありそう。
親がああしなさいこうしなさい、あれはやってはダメと強く子どもに言っている。
そしてそのその親が、比較的、良い学校を卒業しているらしい。

これが原因で踊らなかったのかは分かりません。

僕が見ていて思う事

記憶が確かな小学校時代以降の、自分の記憶をたどってみると。
そこには、クラスに1人ではなくとも、学校に数人は整列ができなかったり、ダウン症気味の子がいました。

当時は、その人に対して「何で並ばないのだろう」と、僕は考えていました。
オッサンの年齢になるまで生きて、さまざまな病気があったり、人の多様性をやっと認識。
小学校時代の僕の想いは、いまは無神経そのものと反省しています。

その子の存在を、そののまま受け入れる。
舞台に立っていただけで充分。

親になって、この想いがハラオチするようになりました。
たとえお遊戯会で踊らなかったとして、どれほどの問題があるのか。
もしかすると、本人が一番つらい思いをしている可能性も考えてしまいます。

周りの子どもより少し発達が遅れてる子どもは、集団になって比較すれば必ず一定数、発生します。
そうなると、親側が焦ってしまう気持ちも、人の親として理解できます。

それでも、親が慌てない姿勢は、子どもにとって重要なので。
「そのままで大丈夫だよ」と子どもに言うことが、親にできる最大のギフトかもしれません。

毎回ですが保育士さんは

僕が見ていたお遊戯会では舞台袖に、担任の保育士さんがいました。
踊らない子を見て、保育士さんはわずかな苦笑いを一瞬うかべ、その後は手拍子していました。
もしかすると、苦笑いと思ったのは僕の思い込みかもしれません。

保育士さんはたくさんの子どもを見ている。
その中の一人が、集団行動できていない。

いろいろな想いが錯綜しているような気もしますし、意識して吹っ切っているとも予想できます。
保育士さんも人間なので、子どものタイプによって好き嫌いはあるのでしょう。
それでも、不満を表立って表すことは少なく、実際はそんな余裕もないように想像します。


出典:文部科学統計要覧(平成31年版)(文部科学省)

保育士さんの大変さを身に染みて感じているので、興味があってみてみました。
上記が、文部科学省にあった幼稚園の園児数と教員数の推移です。

園児数は少子化まっしぐらの日本らしく、しっかり右肩下がり。
教員数は横ばいでした。
2つ目のグラフにある通り、1教員あたり園児数は、減っているようです。

それでも保育士さんの「大変さ」が減っていると、僕は考えていません。
時代に即して変化しなければいけない。
モンスタークレーマーや、何かあったときのバッシング回避のために、余計なタスクも増えていると想像できます。

毎回ながら、保育士さんには感謝しかありません。

さいごに

以前の運動会の記事でも書きましたが、僕は親になって、集団から外れる子に対する感度が上がりました。
その子に対しても、その子の親の心情も、リアルに想像します。

いままで意識していなかった、庭の木がいつのまにか実をつけているような。

いいかえると、当事者意識の欠如なのですが、電車でのベビーカー問題もその一例です。
独身時代に「迷惑」だったものが、いまは「ベビーカー移動は本当に大変なんだよ」に変化。

年齢を重ねて、少しずつ自分の心境が変化していく。
全体的にいまは「それくらい良いのでは」と、フワッと許容できるような心持でいたいと思うようになりました。