子どもの公園の遊具の取り合いは、社会性の実体験の場でもあると僕は考えています。
さまざまな年齢の子どもが集まり、同時に同じ遊具を使いたいときがあります。
たいていの場合、年長の子どもが年下の子どもに「どうぞ」しており、その光景は見ていて気持ちが良いです。
それでもたまに、体が大きい子が小さな子を押しのけるシーンに遭遇すると、モヤっとしてしまいます。
体の大きい子の圧力は強い
公園で、僕がわが家の子どもと遊んでいた時のお話です。
その公園は大きな公園で、遊具が充実しており、その日もたくさんの子どもが遊んでいました。
公園の遊具がたくさんあると、自然と難易度の高い遊具は大きな子、緩やかなものは小さな子が集まります。
われわれが遊んでいたのは、幼児向けの大型複合遊具。
緩やかな坂と途中に屋根のついた家のような箱、小さな滑り台の構成の遊具でした。
大人には大きな興奮は得られない幼児向け遊具ですが、はまる子どもは長時間その遊具で遊びます。
今回はそんな遊具での出来事です。
その時、わが家の子どもは、家のような屋根付きの場所から、お買い物ごっこを僕にして楽しんでいました。
石とか棒で「はいコレは10円ですー」というようなおままごと。
僕も「お願いしますー」とか「ありがとうございますー」と言いながら遊んでいました。
そこへ、小学校低学年くらいの男の子が走ってきて、わが家の子どもに言いました。
「ココ、使っているからどいて!!」
大きな声で、圧迫感のある言い方を大人の僕にではなく、体の小さいわが家の子どもに向かっての発言。
それを受けたわが家の子どもは、ムスっとして黙って相手をにらんでいました。
幼少時の一年の差は大きい
相手が男の子で、わが家の子どもより数年、年上。
身長も数十センチの差があります。
それはわが家の子どもにとって、「恐怖」という表現が近いと僕は考えています。
ここでのわが家の子どもの理想的な返しとは、「いま、使っているからあとにしてください」かもしれません。
ただ、この状態で言い返せる子どもがいるのか。
きちんと言える人は、「小さな戦士だなぁ」と思いますが、実際にそういう子を見たことがありません。
大人でも自分より、1回り以上体が大きな相手が高圧的に接してきて、はたしてはっきり言い返せる人がどれくらいいるか。
日常的に発生する、遊具取りやおもちゃの取り合い、僕はこういう場合、最初は黙ってみています。
まずはわが家の子どもがどうするのか、どうしたいのかを観察します。
相手が同じくらいだと「だーめーよ」と言ったり、時に堂々と無視します。
相手が大きい子の場合、黙ってにらみかえす。
それだけでも、十分、抵抗していると僕は感じています。
たいていの場合、そこまで観察したあと、助け舟として「いま、われわれが遊んでいるので、後にしてね」と相手の子に僕が言う。
そうすると、言ってきた相手は引き下がります。
僕が気を付けているのは、相手の子どもに「高圧的な態度に取れらないように」という気持ちをもつ姿勢。
いくら気を付けても、先方の受け取り方はさまざまで、絶対的なものだとは思っていません。
それでも相手の子にとって、僕は明らかに体が大きく、その人が高圧的なのはアンフェア。
こういう時にいつも頭をよぎるのが、声が大きい人が有利になるのではなく、もっと平等になれないだろうか。
1つの方法として、大人の会議を民主主義的(平等)に導く手法の、「ミツバチの引っ越し」のお話を思い出します。
ミツバチの行動から導き出した民主主義的な会議方法
組織でたまに出てくる「正しい意見ではなく、声が大きい人の意見が通る」というお話。
その対策としてミツバチの引っ越しのお話があります。
ミツバチが。新しい巣に引っ越しするとき、民主的な方法をとる。
最初のミツバチが良い場所を見つけると、仲間にそれを知らせる。
仲間はその場所がよければ賛成意見表明として「踊る」、反対の場合は「踊らない」。
一人一票、いちミツバチ一踊り(一票)のルール。
たくさん票を獲得した場所に、全員で引っ越しをする。これを人間の会議でも適用し、出席者全員が必ず一定の持ち時間発言する。
こうして、声の大きな人ばかりが発言することを防ぎます。
この方法でミツバチの引っ越しは、ほぼ失敗しなくなるそうです。
このやり方が良い手法なので失敗しないのか、もともと失敗の可能性が低いのかはわかりません。
それでも、この1人1票の平等ルールを適用した会議は、声が大きい人の意見ばかりが通る可能性は低くなりそうです。
ここまで書きましたが、このミツバチ行動(会議)は、子どもの公園の遊具の取り合いでは生かせそうにありません。
声の大きな年齢の上の子と、声の小さな年少の子が、順番に同じ時間、自分の言い分を言っても結果は年長が勝つでしょう。
論理構成や、それまでの経験の数、そして身体的大きさからの精神的優位。
よほどの差がなければ、年少の子どもが遊具を死守するのはは難しいと想像します。
ひととの関係は最大公約数的なルールが基本
背景が違う人々が集まるプロジェクトなどでは、平等は基本です。
例えば、日本以外の国の人々複数人と仕事をする場合、声高に自分のやり方を主張したらどうなるか。
たまたまあるプロジェクトで、自分のルールを周りに押し付けが成功したとしても、次のプロジェクトにその人が参加できる可能性は極めて低くなります。
だれが自分ルール万歳ポリシーの「イヤな奴」と一緒に仕事をしたいか。
たくさんの国の人が集まる場では、最大公約数的にチーム全員が少しずつ譲り合うことが、基本ルールになります。
国際色豊かな人々が参加するプロジェクトで「使う言葉は日本語で」と言ったら、だれも相手にしてくれません。
自国の言葉はそれぞれ違う人がたくさん集まる場合、いまの時代は使用言語の第1候補は「英語」です。
少し前であれば、日本国内の僕の経験でも、声の大きい人の意見が通りやすかった状況はありました。
ただ、本当に偉い人(圧倒的な成果を残している人)は、声を抑えて節度を持って話されることを僕は知っています。
小さな声だったとしても、たいていの人がその人が発言すると、聞く姿勢になる。
仮定のお話ですが、宮崎駿さんやイチローさんが、小さな声で話している内容を、僕はじっくり聞いてみたい。
それでもまだ、社会には声が大きいほうが意見が通りやすいから大声を出すべき、との主張もあります。
その一つの反論として、いまGoogle検索で「声が大きい」で検索すると、ネガティブ意見が上位を占めています。
Google検索結果順位は、時代の流れをみる1つの指標です。
僕は自分の子どもに「大声で友達を恫喝すれば、他人は言いなりになるからやりなさい」とは言いません。
自分の主張をしないと存在を認められない時代なので、節度を持って主張をしてほしいと思っています。
伝え方やタイミング、周囲も自分の味方に巻き込んだり、相手の弱点をつくなども、当然考えるた方が良いとも考えています。
さいごに
「サイレントマジョリティ(物言わぬ多数派)」と「ノイジーマイノリティ(声高な少数派)」という分類があります。
誰かの行動や言動すべてがどちらかに寄るのではありませんが、少なくとも時代は「ノイジーマイノリティ」には逆風が吹いています。
理由は、インターネットの発達により、みんなに声を上げる場ができたこと。
「ノイジーマイノリティ」側は、過去は現実世界で、いまはそれにプラスしてインターネット上でも相手を恫喝します。
対して「サイレントマジョリティ」側は、過去には言葉通りほぼ黙っていましたが、いまはインターネット、特にSNSがあります。
匿名性も手伝い、筋が通っていない内容には、反発意見を表明でき、ときに周りを巻き込みます。
metooもその一例と感じます。
僕はすべてが政治的に正しい(ポリティカルコレクトネス)的になる、と幻想を抱いているわけではありません。
それでも以前に比べ、おかしい内容がおかしいと、みんなが言える環境になったと思っています。