言葉にするといつも的外れ

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育児・子供観察

伝えることの奥深さと難しさ。
どれだけ熟考しても、100%気持ちを言い表せる言葉を発するのは、蜃気楼のようで、いつも中心から少しずれている感じがあります。
それでも言葉を知らなければ、それがより的外れになっていく。
考えること自体が言葉で行う行為で、言語がすべてのベースです。

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子どもは自分の意見をうまく言えない

子どもが「コレ、できるようになったから見て見て」と寄ってくる。
たとえばハサミが使えるようになったとか、覚え始めたひらがなで自分の名前を書いたときなど。
いままでできなかったのが、工夫したのか、自然にできるようになったのかは分かりませんが認めてもらいたい自意識の表れは、親側としても成長が見られうれしい。

それを受けて「おー、できてるねー」と僕は言いつつ、どれくらい出来なかったのか、どんな工夫をしたのかなど聞いてみますが、子どもは照れて、そそくさとその場を去ることもある。
ほめられるとちょっと恥ずかしい、ツンデレではありませんが、微笑ましい光景です。

そういう時、僕はなるべく、子どもに「なぜなぜ5回」を試みます。
子どものそばに行って「どうやってやったか教えてー」と食い下がる。
はじめは「うーん、こうして、こうしたんだよ」と身振り手振りで話しますが、よく分からない。
文字起こしすると、説明になっていないのが分かりますが、子どもは説明している気になっています。

その身振り手振りから、すこし助け舟を出して「どういう手の動かし方だった?まっすぐ使ったの、丸く使ったの?」など。
そうすると、そのとっかかりから具体的なやり方を、子どもの脳内の少ない単語を探して、話してくれる。

子ども側にとっては、面倒くさい父親だなぁと考えているかもしれません。
数学者の藤原正彦氏の『祖国とは国語』にある「国家の浮沈は小学校の国語にかかっている」や、教育学者の齋藤孝氏の『語彙力こそが教養である』の「教養は言葉の端々に表れる」など、言語(国語)の重要性は高いと僕は考えており、それを子どもに押し付けています。

言語化できないモノは伝わらない

言葉を知らなくても、自分が気持ち良ければそれで良いという考えも生き方の1つですが、僕はこの考えには賛同しません。
自分の言葉で説明できて「理解」という次元になり、さらにその先に進める。

クラッシック音楽を、知識なく聞いて楽しむのも良いですが、その楽曲がどういう時代に、だれがどんな思想でつくったのかを知ると、広がる世界がある。
何となく「明るい雰囲気が好き」では、雑談では通用しますが、発展がありません。

音楽のように教養的なものは、生活するだけなら不要です。
しかし世界有数のコンサル会社・マッキンゼーが2015年にデザイン会社を、米国の金融大手キャピタル・ワンがデザイン会社のAdoptive Path買収したように、時代は論理から感性にシフトしつつある。
そういう時代に、井の中の蛙大海を知らずで生きていくのはリスキーです。

別の視点として、経験を体系的に記憶するために、自分の言葉に置き換えるのは、記憶術としても優れています。
記憶の価値は情報化社会で変わってきましたが、自分の中にあるものをつなぎ合わせる行為は、永遠になくならない知恵。

子どもが自分の好きなテレビ番組のキャラクターなどを全員暗記するのを、僕はとても良いと思ってみています。
そのキャラクターを覚えること自体に意味は薄くとも、そこから派生する感情や、それを土台にしての応用になる。
何よりも、その時間を本心で楽しんでいる姿は、生きる最大の目的のようにも感じられます。

言葉にできるかは、思考のための道具をたくさん持つようなもの。
その道具はいろいろな種類があり、手入れをしていると磨きこまれて、得も言われぬ美しさになる。

プロの料理人が使っている、包丁のようなものです。

語彙力による格差

ベネッセが2017年にリサーチした語彙力格差の情報が以下です。


出典:思考力・表現力「語彙力」の関係(ベネッセ)

2017年7月、全国の高校生・大学生・社会人計3130人を対象に、インターネット上で「第2回 現代人の語彙に関する調査」を実施した。「思考力・判断力・表現力」と関係があると考えられる行動・能力について、あてはまるか否か高校生に尋ねた結果を分析した。どの項目でも、「あてはまる」と答えた割合は、「語彙力」の高いグループのほうが低いグループより高かった。

どの項目も、いま流行りの非認知能力として重要と思われる内容で、語彙力が単なる記憶文字としての差だけではない結果になっています。
2項目目の「文章を読む時、細部より大枠をつかむことができる」や、4項目目の「筆者の主張に対する自分の意見を考えながら読むことができる」など、この先、重要と言われる要素だらけ。

自分の考えを表現するのは難しく、その難しさを経験し、磨きをかける。
伝わらないことを知るのは、客観的な視点でものを見ており、なぜ伝わらないか試行錯誤する。

「生きるのは大変だ」「人とのコミュニケーションは難しい」と切り捨てるのは簡単です。
その難しさを知ったうえで、どう切り込んでいくか。
最低でも伝達が難しいのを認識するなら、他者に寛容になれます。

思考を形作る「言葉」を、どうやって身に着けていくか。

いつも本心は言い表せない

小さな子どもは、言葉のストックが少ないのは当たり前です。
そんな子どもに幼児期から読み聞かせ、文章に親しみ、活字慣れできればそれが武器になるのは言うまでもなく。

インプットだけではなく、アウトプットも意識する。
その機会を作るのは、僕は親の役割だと思っています。

なけなしの言葉を駆使して、たどたどしく自分の意見を伝える姿は、子どもの中の小さな冒険。
親側は、言い間違いの妙技に触れられる、楽しい時間でもあります。

何でもスムーズにできるわけもなく、1歩ずつ上達していく。
大人になって、うまい言葉を使う人を見ていると、共通点があります。

・話が分かりやすい(論理力)
・相手の話を理解しやすいし
・その場の雰囲気がおだやかになる(不適切な言葉を使わない)
・プレゼンや説得の場でも有効
・たくさんの知識から話を広げられる
・アイデアを生み出す源泉になっている
・経験を抽象的に置き換えしてストックしている
・自問自答、深く考えられる
・不用意な言葉を使わない(言葉が思い)

技術が上がるほど、欠点も見つけられてしまうのは、世の常。
どれだけ語彙が多くても、本当の自分の気持ちを的確に表せていないが、次善策で一番近いワードを探し出してくるような。

言葉にしたとき、そのワードが不完全であることを知りつつ、それでも発言する。
言葉を大切にする人ほど、言葉が少なくなるのは道理です。

さいごに

最近、ネットで「20代と30代のテレビ視聴者割合が半数」というニュースが話題になりました。
それを新聞が記載したので、その新聞社を揶揄して「20代30代の新聞購読率は数%」とかぶせていました。

僕はどちらも単なる時代の流れの1つと捉えており、良いも悪いもないと見ています。
自分が20代のころは、テレビは見ていましたが、新聞はほとんど読んでおらず。

現代の若者はスマホ視聴などのスクリーンタイムが、時間を使う代表的なものの1つになっています。
漫然とネットを眺めるのは身にならないかもしれませんが、本人がそれを分かってやっている。

このブログに何度か書きましたが、僕は活字中毒者です。
読書が好きですが、これもスマホ視聴と同じ自己満足。

ただ、僕は読書で無限の世界を知ることができた一人です。