子ども同士のケンカの経験が必要かどうか。
いくつかのサイトを眺めてみると、やはりその経験は必要と考える親が多いようです。
僕もその意見に賛成で、ケンカはたくさんの生きた知恵を得られます。
人生のトライアル時期でもある子ども時代は、失敗が許される黄金期だと思っています。
僕が殴られた経験
僕は中学生の時に、初めて人から殴られました。
原因は、ささいな行き違いと僕は認識しているのですが、相手の同級生の男性が、僕の発言が許せなかったようで、胸倉をつかまれて右ほほを本気で殴られました。
殴られた直後、「こちらに非があるのか?」の言葉が脳裏をよぎり、考えているうちに反撃する熱意も薄れ、相手は立ち去っていきました。
右頬に鈍痛が残っていました。
僕がこの経験から最初に学んだのは「素人が人を殴ってもたいして痛くはない」でした。
テレビや映画に毒されていたのか、殴られた自分が吹っ飛ばず、首が殴られた力の方向に回った程度。
物理的なダメージはほぼなく、精神的に殴られたダメージの方が強いと感じました。
もちろんこれは、相手が同級生で、同じくらいの身体の大きさ同士だったからでもあります。
プロの格闘家が素人を殴ったら、別次元の肉体的ダメージが残るのは予想できます。
物理的ダメージが少ない以外にありきたりですが、「不用意な発言は良くないな」とも思いました。
いまだに相手がなぜ殴るほどの感情に至ったのか理解できていないのですが、その相手の気持ちを察せていない時点で、足りない事でもあります。
その後、殴った相手とは2年間の「お互いが無視」の期間を経て、普通の会話ができるようになりました。
特に意識して、仲直りしたわけではないのですが、なんとなくそうなりました。
殴った直後か翌日くらいに、お互いの言い分をすり合わせて仲直りが理想かもしれませんが、その時のわれわれには、理想とは遠い結果でした。
その後、お互い、少しずつ目に見えない壁を壊していったような。
この経験を踏まえ、僕はケンカの経験は必要だと思っています。
ケンカから学ぶことは多い
僕は子どもの性別が男であれば、物理的に軽傷のケンカの経験は、理想的なだと思っています。
男尊女卑や時代錯誤と言われても、男の場合、人生のどこかのタイミングで物理的衝突が発生する可能性がある。
また、自分ではなく、自分の子どもが男の子で、だれかとケンカしたとき親として同じ目線で話せるか。
人に殴られた物理的な痛みと心の動揺、その後の仲直りなどの社会性の向上など、考える点は多い。
少し逸れますが、これは失恋経験に近いと思っています。
失恋の痛みを知らない人が、恋愛を語るのは説得力がない。
同じ状況・状態は存在しませんが、身近な人の失恋に自分固有の経験から、辛さを想像することはできます。
他にケンカの効用として、相手の感情を想像したり、共有遊具を独り占めできない経験、一緒に遊んで貸し借りで譲ったり。
どういう行為が自分にとって不快なのか、意のままにならないときの自分の感情と向き合う経験。
自分の正しいと思っていたが、じつは独りよがりで、先生に「それは違うよ」と言われて考える経験。
大人相手に客観的説明能力も必要ですが、子どもの年齢が低ければたいていは、自分優位に現実を捻じ曲げる(嘘をつく)。
これらだけでも、社会の中で生きていくうえで、基本の要素が盛りだくさんです。
ケンカしなくても生きていけますが、子どもが社会性を身に着ける上で、ケンカはよい教材です。
経験知は、人肌の温度感を持った言葉となり、受け取り側に温かみを与えるものだと思っています。
子ども同士のケンカをどこで親が止めに入るか
子どもと一緒にいて、子どもがだれかとケンカを始めたときどこで止めるのか。
これは難しい。
先述の通り、僕はケンカの経験は必要だと思っています。
どこからケンカなのかの線引きはさておき、他者との争う経験と置き換えても同様。
大人になっても、心理的な陣取り合戦は、それなりの頻度で遭遇します。
子ども時代のケンカは、そんな時の予行演習、トレーニングのようなものとも考えています。
身体的接触が始まったら止めるのは基本だろうと、たいていの人は同意すると思います。
その前でも、年齢差や体格差があったり、複数人対1人も要注意。
どちらかが、泣くなど負け要素が強い状態は仲裁に入る、いじめは論外です。
僕が気を付けているのは、ケンカが始まりそうだからといって、すぐに回避しない。
感情的な言葉で言い争いっぽくなっている時点では、放置だと思っています。
親が仲裁に入るときも、どちらの子どもにもできれば目を向けておきたい(公平)。
自分の子どもを身内びいきで擁護しないよう、原因は客観的にどうだったのか。
相手の親がその場にいたとして、実現が難しいのが、相手の子どもを叱ることです。
両者の言い分を聞いて、相手の子どもが悪ければしっかり叱る、これは僕にはハードルが高い。
モンスターペアレントが頭をよぎる、リスク回避思考でもありますが、現実は正論ばかりとはいかず。
ただ、自分の子どもへの姿勢として「それは君が〇〇という理由でまちがっていると僕は思う」くらいは言いたいところです。
そして現場でも事後でも、自分の子どもと一緒に振り返って考えるのは、「鉄は熱いうちに打て」の典型です。
大人ができるフォロー
自分の子どもと、ケンカを振り返る。
親は口を挟まず、子どもの言い分を聞く。
話し終わったら同意の内容も含め、自分はこう思うとか、相手の子はどう思ったのかなど話し合う。
子どもの年齢・成熟度によって、表層的な内容になることもあります。
何が原因で、どこが問題で、どうしたら2度と起こらないか。
毎回、きれいな着地点にはたどり着かないかもしれませんが、できる範囲でやっておくのは子どもの財産になります。
また、手前味噌で恐縮ですが、僕の奥様が取った行動で、理想的と思った話がありました。
それは、わが家の子どもが友達とケンカをして被害者だったケースで、僕の奥様が加害者の子どもにとった対応です。
子ども同士のケンカが発生、当人や目撃者の話を聞くと、どうやらわが家の子どもは被害者という状況。
正直、子ども同士のケンカで、大人が見ていなければ客観的事実を突き止めるのは、夜空の星の数を正確に数えるような無理筋。
関係者の話を総合してみて、たぶん、わが家の子どもが被害者にあたるシチュエーションのようでした。
この状況で、僕の奥様はケンカ後、当人同士が初めて会った時、僕の奥様から笑顔で相手の子に話しかけました。
たいていの場合、ケンカの加害者は、ケンカ後に被害者と顔をあわせるのは、相当に居心地が悪い。
相手はまだ怒っているのか、どうやって話しかければ良いのか、話しかけられないのでどんな距離感を保つのか。
冒頭の僕が中学時代に殴られたケースでは、お互い話しかけられずに無視2年という、思春期にありがちな話です。
被害者側も、精神的にはやや優位の可能性もありますが、やはり気まずいのは同じ。
息苦しいそんなとき、被害者(の親)が笑顔で話しかけてくれたとしたら。
一気に気持ちが軽くなるのは、想像に難くありません。
それを見ていた被害者側の子どもは、瞬間「何で?」と思うかもしれません。
それでも長い目で見れば、その行動の深さが理解できる時が、きっとやってきます。
さいごに
自分が子どもに戻って、ケンカの当事者だったと仮定します。
その時、自分の親が毅然とした態度で、納得できる態度を自分にも相手にもした。
その時点では、自分の肩を持ってくれないことに、ぶつくさ言うかもしれませんが、少し時間をおいて感情が落ち着いたとき、少しだけ納得できるような。
さらに5年10年経ったあるとき、ふとその経験を思い起こしたら。
たぶん、自分の親がとった筋の通った行動を、ハラオチで納得できる気がします。
もしかすると、その時見た光景が、自分の行動指針になっているの可能性も考えられます。
ここまで想像すると、子どものケンカの時に親のとる行動は、力をいれる場面かもしれません。
と言っても、無駄な力が入った状態では、本来の力が出せないのは、だれしものが分かっていること。
普段は適度にしっかりやっていて、たまの失敗をするのも人間っぽくて、それも子どもの肥やしと自己弁護。
「俯瞰」や「離見の見」とは遠くとも、フワっと全体をみつつ、要所で引き締めるのは生きるコツの1つかもと思っています。