子どもが明らかにウソと分かることを言う。
少なくとも幼児期のウソは、大人のウソとは違い、僕は「受け入れるもの」と考えています。
善悪の基準や、世の中のルールを学び始めた初歩段階では、それは子ども絞り出した知恵のようなもの。
ウソを頻繁につく子どもがいて、その原因がウソをつかないと許されない環境を親が作っているのであれば、反省です。
自分の子ども時代を思い返してみると
僕は人はウソをつく生き物だと思っています。
悪意を持ったウソであれば、大人であれば周囲に人が近寄らなくなるだけ。
そうではなく、場を回すための方便であれば、かなりの割合の大人が日常使っていると思っています。
また「ウソの定義は?」の難しい問題にも、突き当たります。
ウソをどれくらいつくのか。
オランダの調査ですが、6歳~77歳までの1,005人の結果がありました。
出典:From junior to senior Pinocchio: A cross-sectional lifespan investigation of deception(Acta Psychologica)
両方のグラフからは、10歳代が一番多くウソをつく。
最年少の6~8歳と、最年長の60~77歳は、この中では一番ウソをつかない。
個人的には10歳代の頻度が高いのは納得です。
この年代は、自我肥大、自分中心で何でもありと、勘違いしやすい時期。
自分の当時を思い出しても、思い当たる過去は、湯水のごとくあります。
その場を切り抜けるためのウソ、感情的にひっこみがつかなくなった言葉。
いまの自分が当時の自分に声をかけるとしたら「いい加減にしなさい」。
そんな自分でも、いまではなんとか、社会人として生活しています。
僕は、なるべくウソはつかないでいられるよう、意識して環境を整えています。
理由は「ウソをつくと疲れる」。
また、ウソをつき続けて、感情なのか判断力なのか麻痺するのも嫌。
ウソの習慣化は避けたいと思っています。
子どもが安心できる環境づくり
先天的(生まれながら)に、ウソをつく子どもはひとまず置いておきます。
子どもがウソをつけば自分の想い通りになる。
そんな環境をつくると、それが習慣化される危険性を考えてしまいます。
「ゴメンナサイ」と言えば何もなく許す。
その手法で、その場から逃げられると学習する。
たいていの人は、どこかの段階で、ウソをつきだします。
それは社会との調和を求めた、子どもが考えた回答かもしれないと、僕は考えています。
親に叱られないように、だれかに嫌われないように。
自分の願望と現実の差を認められない。
親の気を引きたい。
虚言癖をうたがったとき
子どもが明らかにウソをついている。
それが中学生になっても、変わらない。
周りからは、浮いている存在として扱われている。
サイコパスやソシオパスなのかと、不安が募りそうです。
その対策として、家の中に監視カメラを仕掛けて、ウソの証拠を確定させて、本人につきつける。
想像するだけで、息苦しい状況です。
しかも、そこまでやっても、自分はウソをついていない、と言われたら。
ここまで来ると、外部専門家を頼る必要があると、僕は考えています。
安易に、家の中の問題だからと考えると、泥沼になってしまわないか。
この状況が軽傷~重傷で言うと、どこか不明ですが、少しでも傷が浅いうち手を打つ。
介護と同様、綺麗ごとではなく、子どもの未来のためにヘルプを受けることは意味があると思っています。
自分のウソにはっと気づく
僕は以前、わが家の子どものウソで、印象的なシーンがありました。
正直、ウソというより、論理矛盾のオモシロネタです。
僕と子どもは「テレビを見たら、その後お風呂に入ろう」「うん、入る」の約束をしていました。
どこのご家庭でも経験があると思いますが、その後、子どもがお風呂に入らずグズる。
僕もそれを見越して何度か「約束だよー、テレビが終わったらお風呂」「約束、約束ー」を交わしていました。
その時は、見事にお風呂を拒否。
こちらもイラっとしていまますが、簡単に子どもの言い分を聞いて、増長させるのもイマイチです。
僕はひとまず、お風呂まで抱きかかえて連れていきました。
もちろんそこで、ひと悶着。
「さっきお風呂に入るって約束したよね」「してない」
論理的に攻めすぎるのも時と場合によりますが、その時は僕は論陣を張りました。
「さっきテレビ見てたよね」「うん」
「テレビ見る前に何か約束してなかった」「した」
「なんの約束をしてましたか」「お風呂に入る約束した」
はっ!
親の姿勢
子どもがウソをついたとき親はどういう対応が望ましいのか。
感情的に叱ったり、理由を問い詰めると、その後、それらを回避するためにさらにウソをつくようになるという説があります。
僕は感情的になってはいけない部分は同意しますが、理由を問い詰める部分には否定的です。
厳密には「問い詰める」のは良くないが、「話し合う(一緒に振り返る)」のは、最重要だと思っています。
どういう状況、どうしてそうなったのか、その時どう思ったのか、相手がいるなら相手はどう思ったのか。
一人ではなかなかできない自省を、一緒に考えて、再発防止策を見つけ出す。
こういう時に親がメンター的な役割を担うのは、その後の親子関係に大きく影響するはず。
そして親が頻繁にウソをつくなら、絵に描いた餅は言うまでもなく。
子どもや他人とした約束は、できるだけ守る。
不慮の状況で守れなかった時は、守れなかった結果を認め、理由を話す。
子どもと一緒に動いていると、約束の時間に遅れるのは、太陽が東から登るくらい当たり前、全員お互い様だと思っています。
さいごに
子どもといると、大人が思いもつかない行動や発言に出会います。
それは突拍子もないものであったり、おもしろかったり。
僕は自分が考え付かなかった発想に出会うと、「それは現実的にアリか」考える癖があります。
たとえば、唐揚げにマヨネーズをかける人がいたら。
そういう食べ方があるのか知りませんが、少なくとも僕の過去の経験では知りません。
実際にそういう人に出会ったら。
「味として美味しいそうな気もするので、僕もやってみよう」
子どもがウソをつく。
それは子ども本人の中では、事実かもしれないとも考えます。
大人目線、社会一般化(平均化)した、おもしろ味の少ないルールで考えるとおかしいかもしれない。
しかし、子どもはその一般化したものを知らず、自分のそれまでの少ない経験から、答えを探す。
その結果、子どもは「これが正しい!」と、ウソではなく主張している可能性があります。
度を超えないようであれば、一生懸命考えたウソは努力賞としても受け入れる。
精神的余裕がないと難しいですが、その積み重ねは精神的な安心として、人生を大きく踏み外さない材料になるのでは、と思っています。
子どものウソは、凝り固まり勝ちな大人脳にとって、一服の清涼剤です。