家族に重きを置く現代の母親

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育児・子供観察

ご高齢世代で、働く母親を快く思っていない人も、いまだにいます。
考え方の世代間の格差は、昔から不変の話題で、これもその1つ。
現代の母親は、働く人が3/4という時代です。
そのうえで子どもとの会話時間も以前より増えているのは、人生のウェイトが家族に重きを置いている生き方でもあります。

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かわいそうという思考停止

ある児童館にわが家の子どもと訪問した時のこと。
われわれは、いつものようにお気に入りのおもちゃを受付で借りて、遊ぶ部屋へ移動。
そこに、知らないご家族、祖母、母親、子どもの3人が先客としていました。

僕はいつも通り、わが子のそばで、一緒に遊んだり、子どもが遊んでいるのをぼんやり眺めたりしていました。
遊び慣れたいつものオモチャで遊ぶのは、大人にとっては暇と言えば暇。
盗み聞きするつもりはないのですが、われわれのそばにいた、先ほどの3人のうちの祖母と母親の話が聞こえてきました。

祖母はどうやら、母親が働いていることを良く思っておらず、専業主婦が理想のお考えでした。
対して、理由はどうあれ、母親は働きつつ子どもを育てる方針で、祖母の意向と違う。
それで、軽い口喧嘩の温度感になっていました。

こうした会話で出てくるフレーズで、僕には耳につく単語があります。
「かわいそうでしょ」
このケースでは、祖父母が母親に向かって「子どもと一緒にいてあげないのは、かわいそうでしょ」。

そもそも現代は、共働きが主流です。

働く母親の割合は一般知通り増加

厚生労働省データで、1985年からの情報が以下です。


出典:平成30年版働く女性の実情(厚生労働省)

この情報はシンプルにするため、フルタイムかパートタイムかは除いた、働いているかいないか。
女性の就労率増加は一般常識ですが、このデータの最新2018年では76.5%と4人に3人は働いています。

現代女性が働く理由は、一般的には経済的理由か、自立などをよく耳にします。
夫である男性側の収入が低い、まはたいつどうなるか分からないリスクヘッジとして。
または、夫の従属ではなく、一人の人間として、稼ぐこともその一端と考える。

僕がの所属している会社の若い女性に、セクハラにならない雑談の時に聞いたときの解答が以下です。
「夫と対等な関係は当たり前、私には亭主関白など絶対にありえない」

これが現代女性の大半の意見とは思っていませんが、平等や自立を石kされている女性が多いのは間違いないと思っています。

働いていても会話は増えている

では、働いている女性と子どもとの会話時間はどうなのか。
少し古いですが、厚生労働省にあった15年推移のデータが以下です。


出典:全国家庭児童調査(厚生労働省)

総論、会話時間は増えています。
グラフの下側が「会話時間が短い」、上側に行くほど「長い」。
推移でみると、上側の面積が大きくなっています。
現代女性は、就労率も上昇、子どもとの会話時間も上昇となります。

1日24時間は不変で、睡眠時間は現代は足りないと言われているの、起きている時間は少し伸びています。
ただ、それよりも自分の時間を確保するために、影響しているものがいくつかあると思っています。

ドラム式洗濯機や食器洗浄機など、家電の進化
ハウスキーパーや、食事宅配などのサービスの発達
仕事は仕事と割り切り、集中して業務をこなすことや、終業後の飲み会の減少

女性も働いて稼いで、さまざまなサポートも駆使し、子どもとの時間を作る。
家族を大切にする女性が増加している、と体感的に僕は感じています。

一応、同じ情報ソースに「就労していない母親の子ども達との会話時間」が以下。

出典:全国家庭児童調査(厚生労働省)

このグラフから1つだけ上げるなら、就労していない母親も、子どもとの会話時間が増えている。
現代の母親は就労状況に関わらず、子どもとの会話時間を大切にしているようです。

家族の重要性が高くなっている

話を戻して、冒頭の祖父母の母親に対する「かわいそう」発言。

現代の母親は、自分の人生のことも考え、子どもとの時間も確保している。
この状況をかわいそうと片付けて良いのか、僕には違和感を抱いてしまいます。

祖父母側の肩を持つなら、会話時間が少し伸びただけで、一緒にいる時間は減っているという反論もありそうです。
実際、働いている、特にフルタイム従事者であれば、専業主婦にくらべると子どもと一緒にいる時間はすくなくなるのは自明。

ただ、ここで1つの視点として「質」か「量」かがあります。
一緒にいる時間が大事なのか、一緒にいてその充実度に重きを置くのか。

大人の対人関係は、僕は「質」に軍配を上げます。
大人になってまで、なれ合いでいつものメンバーで集まる不毛。
会社帰りにいつものメンバーで、いつもの飲み屋に行き、何を得るのか。

自立した大人同士が、数年に1回などのタイミングで集まり、凝縮した時間を過ごし、パッと解散する。
僕はいま、そういう関係性が心地よいと感じています。

ただ、子どもと親については、「量」も意味があると体感で感じています。
幼少期には特に、親が同じ部屋にいて、何を話すでもなく、お互い自分のことをやっている。
同じ空間にいて、存在感(安心感)を確かめあっている。
子どもは親が視界からいなくなると、心配で探す行動を見ていて、本能的なモノかもと感じています。

さいごに

今回のお話、僕は自分の父母との会話で、ふと考えたことでした。
僕の父母が、僕と孫と一緒に温泉旅行など行ったときに、何度か以下の発言をしました。

「私たちはあんた達(自分の子ども達)と遊んでやれなかった」

僕が幼いころは、食べ物にこそ不自由しませんでしたが、家族優先ではなく生活の安定が重要な時代でした。
週休二日などだれも知らない、父親はいつも仕事だったり、母親もミシンすらなかった状況。

子どもと頻繁に家族旅行に行くご家庭は一部で、わが家はそれを実現できなかった。
その悔恨、懺悔のような発言なのかと、僕には感じ取れました。

ただ、受け側の僕がいま思うのは、別に恨んでもいないし、よくやってくれたと思っています。
できる範囲で、それなりに愛情をかけてもらった。
自分が子どもを持って、それがリアルに想像できるようにもなりました。

しかし、それとは別に、いま僕は家族旅行や一緒にどこかに遊びに行くなど、できるだけ実行しています。
それが子どもにどう影響するのか、あまり意識していません。
もっと軽く、自分が後悔しないため、自己満足くらいだな、と思っています。