子育てをしていて、自分の初歩的な間違いに気づく。
歯を磨くなどの習慣化された行為でも、本当のやり方とは違っていたなど、学ぶことはあります。
どの親も何度も体感していると思う、子育ては「自分の人生を振り返る」ようなイメージ。
子育ての意味を言語化するのは難しいですが、その経験は代えがたいものです。
ひらがなの書き順間違いに大人になって気づく
子どもが幼年期に、徐々に学んでいく数字や漢字。
園で隣のあの子はすでに文字が書けるていて、本人ではなく親側が不安になるのは、親の通過儀礼です。
わが家では一時期、お風呂の壁に「平仮名いちらん」を貼っていました。
タイルに水で貼り付ける、防水タイプのもので、書き順付きで50音が書かれているシートでした。
子どもの、手の届く高さにそれを貼り、一緒のお風呂に入った時、たまにそこに話を振る。
子どもが少しでも興味を持つように、好きなアニメキャラクターは何だっけ?と聞いて、一緒になぞる。
最初に覚えてもらいたい言葉の最右翼、子どもの自分の名前も、口では言えるが書けないので、その平仮名が50音のどこにあるか探すところからトライ。
そんな平仮名をなぞっていたある時、僕は自分の書き順が間違っている文字を発見しました。
「も」の平仮名を、僕は横棒を2本先に書くものと思い込んでいましたが、それは間違い。
正解は、縦棒を先に書く。
人間は間違うものと、僕は考えています。
ですが、画数の少ない平仮名の書き順の間違いに気づいたときは、怒りとか情けなさではなく、この簡単なモノでも間違えるくらい自分の不完全さに納得感がありました。
50音といえば、どの順番でどこにどの文字があるかは、大人はすぐにわかります。
白紙状態の子どもがそれを学ぶとき、縦横概念がないので、大人脳の話は通用しません。
子どもと一緒にいると、子ども目線で世界を見ます。
それは、人生をもう一度経験するようなものと、ある時気づきました。
親側のエゴとしても
子どもに興味を持ってもらうために、工夫を凝らす。
こちらの希望通りに動いてもらうためにお菓子などで釣るのは、例外の子どもの話も聞きますが、どの親も一定、やっていると思っています。
アドラー心理学では、取引はやるべきではなく、本人がやりたくないものはやらなくてよく、困るのは本人、と突き放します。
僕も大人相手ではこれに同意ですが、子どもには理想論であり、現実そうも言っておられない状況だらけです。
好きな事であれば、集中してのめり込むが、気乗りしないとまったくやらない子ども。
YouTubeのように、永遠に見続けられるくらいの楽しいコンテンツがあり、それを好きなだけ見てて良いという方針のご家庭は多分ないと思います。
とは言え、それをすべて受け入れるわけにもいかず、勉強やスポーツなど、親側の希望との調整点は発生します。
親側の意向、社会の動静、周りの子どものお話、夫婦間での妥協点。
いろいろな条件を1つの鍋に入れて、落としどころを見つける。
葛藤というか決闘です。
親側の意向は、エゴでもあります。
僕はそれを認識したうえで、子どもにそのエゴをぶつけるのも、一面、有用と思っています。
社会に出て、だれかとの意見の違い、自分のやりたくない事に遭遇したとき、うまく調和点を見つけるための練習。
そういう経験、特に本気で自分のことを考えてくれている親の存在は、いつか子どもの生きる肥やしにもなるのではないか。
都合の良い理屈ですが、そんなことも考えます。
親のエゴでやらせたもので子どもが喜ぶ可能性は、短期的にはそれほど高くない気もします。
たとえば、習い事でいつも1位になる水泳。
やらされ間のある子ども側からすると、また今日も(今週の)水泳の日か、と思うのかもしれません。
大人になった時、水泳が身体や健康の基本につながっているのを体感できた時、その行為に感謝する。
対して、子どもの好きな事については、比較的、楽しそうに取り組むのも現実です。
とは言え、親の押し付けか本人の願望なのかは問わず、たまに子どもが大きな笑顔を見せるときがあります。
その子どもの笑顔を見たとき、僕はしみじみと独身時代に腑に落ちなかった「プライスレス」という意味をかみしめます。
振り返りはもう少し先で良い
僕はもう良い年齢のオッサンなので、分別臭い、頭でっかちにモノを見ています。
過去の経験から、ある程度の未来予測を立て、計画的にずれを修正する。
それが良くも悪くも、自分らしさになっています。
穿った見方をするなら、自分の予測からあまり外れない行動をしている、と自省することもあります。
子どもといると、この笑顔は本気だなとか、声をかけにくいくらい何かに集中している時があります。
逆に、嫌なことは、泣いて本気で抗議する。
こうした動物または本能のようなものに触れると、自分にはないものと、差を感じます。
自分の子ども時代を、おぼろげな記憶で思い起こしてみると、本能全開で考えが本当に足らなかったと振り返ります。
同様、わが家の子どもと接していて、衝動的な行動が見て取れます。
自分の子どもを見て、人生を追体験している。
大人目線でみると、こんなシチュエーションだったんだ
多分(自分の子どもは)こう考えているんだな
だけど、それは自分のことしか考えていない発想だよ
もちろんいまはそれで良いし、そういう気持ちをまず知ってほしい
もう少し大きくなったら、それについていろいろ一緒に話そうよ
だから今日、私たちは子どもをキリスト教徒にも仏教徒にもできるし、資本主義者にも社会主義さにも仕立てられるし、戦争を好むようにも平和を愛するようにも育てられる
上記『サピエンス全史』の内容、親の意向は子どもに大きく影響(操作)してしまっている点は否めません。
自分が不完全と考えている僕は、子どもの環境を操作していることを危険な行為と思っていて、それをやっている意識は持っていたいと思っています。
子どもは自分とは別人格。
親は子どもが元来持っているもの、その引き出しを開けるきっかけをつくるくらいの存在がちょうどよい。
そうでなくても、子どもがどんどん経験を蓄積していく機会に立ち会える幸せ。
自分のことより、子どもが本心で褒められる時は、何倍も嬉しく感じます。
さいごに
子どもを洗脳する。
強い表現ですが、これがゼロと言える親はいない、と僕は考えています。
とは言え、現実、子どもの保護者として、一定のルールを子どもに教えるのは必要。
各家庭の制約もそれぞれで、それが「普通」として子どもは育っていきます。
親の職業を受け継ぐ割合が多かった時代であれば、家庭のルールの絶対度は高かったと思います。
10年違えばルールが変わる現代、親子の年齢差を考えると、子どもの将来に親世代のルールは通用しません。
昭和時代のサラリーマンが、上司だけを見ていてやり過ごせたとして、いまそんな人は淘汰されています。
各家庭に夫婦が決めるルールがあり、それが最もパワーを持ったものとしても、それをどこまで子どもに従ってもらうのか。
平仮名の書き順すら間違えている僕は、謙虚に行くほかありません。