近所づきあいが、減少している。
昔に比べるなら、誰しもそう感じていると思いますが、都心部では顕著にそう感じます。
いまの時代、単身世帯でご近所と付き合う必要性は低い。
それが子どもが生まれると、近所づきあいが増えるのも現実です。
ライフステージで変わる近所づきあいの濃度
10年以上前ですが、僕は首都圏で一人暮らしをしていた時、賃貸のワンルームマンションに住んでいました。
小さな間取りばかりの、典型的な単身者向け集合住宅です。
そこでは基本的に、隣の人の顔くらいは認識していても、さらにその隣や上下階の人はまったく分からない。
顔を知っている隣人でも、言葉に出して「こんにちは」もほぼなく、軽く頭を下げるくらいが日常。
見えているが、見えない振りをする、道端のごみ収集所にあるごみようでした。
その後、結婚して家族向けの賃貸マンションに引っ越し、少し周りの人との付き合いが出てきました。
隣の人の名前や家族構成は把握していて、時に世間話をする。
やがて、賃貸ではなく自分の家を持ち、さらに地域への接触が増えました。
周辺住民の家族構成はもちろん、世間話も日常的になり、情報交換も活発化。
地域のボス、情報結節点のような人と、どう接するかなども考えるようになりました。
この違いの一番の要因は「流動」か「固定」かの違い。
単身者は一時期そこに住んでいるだけで、ヤドカリ感があります。
対し、自宅を持つ状況になると、簡単には引っ越しはしない。
長い間、同じ場所に住むのであれば、周辺住民との関係性に気を遣うのは一般的です。
良好な関係を保てるかどうかで、住み続けるかに大きく影響します。
僕はこれが家を買う時の最大の不安要素だと、いまでも考えています。
とは言え、総論ではいまは近所づきあいを望まない人が増えています。
近所づきあいの低下と単身世帯上昇
出典:第10回「日本人の意識」調査(2018)の結果について(NHK)
出典:日本の世帯数の将来推計(国立社会保障・人口問題研究所)
青色の線が近隣住民に「なにかにつけ相談したり、助け合えるようなつきあい」を望む人の割合です。
1978年にはそれを望む人の割合が32.0%、2018年は19.0%と、約4割減少しています。
もう1本のオレンジ線が、単身世帯の割合です。
1978年は19.8%、2018年は35.7%と、約1.8倍(180.3%)になっています。
単身世帯割合増加が、近隣住民に助け合いの付き合いを望む割合減少の、すべてではありません。
それでも、一人暮らしの人が増えれば、地域交流は減る可能性が高い。
また、多人数世帯であっても、近隣住民に浅い付き合いを望む人もいる。
以前に比べ、軽い付き合いが心地よいと感じる人は、増えていると思っています。
僕は隣の家に入ったことがない、と以前書きましたが、いまは家の行き来が減少。
必然、関係性も浅くなります。
なぜ近所づきあいが薄れるのか
単身世帯に限らず、近所づきあいが減少する理由を上げます。
・核家族化(単身世帯、夫婦のみ世帯の増加)
3世帯家族であれば、3世代の周辺住民とのつながりができます。
いま、核家族化・少子化・単身世帯割合の増加で、つながる点が少なくなっている。
・世代間の思想の違い、格差、軋轢
老人が根性論や、昔はこれが正しかったと言っても、若者は耳を傾けません。
若者側からすると、ルールが違う時代に、古い考えを押し付けられて拒否。
資産の大半が老人側にあって、若者側は搾取されている状況も、不公平感を産んでいます。
・時間がない
現役世代で時間に余裕を持てる人は、ほとんどいません。
現実の仕事や生活、将来の不安、効率化、新たなルールへの適合が求められる時代です。
スマホ利用も、相当の時間を消費(浪費)しています。
自分の時間が限られ、気持ちの余裕がないところに、地域交流は負担です。
・わずらわしさ
そもそも、人とかかわる必要性を感じさせない環境が、いまは整っています。
また、コスパ意識が高まれば、取捨選択はシビアになります。
「それだけ時間をとられて、どんなメリットがありますか?」
必要な情報がネットや自分の交友範囲内で取得できれば、あとは自分のコミュニティで暮らしていけるのが現代です。
・リスク回避
モンスターニュースの氾濫は、一つの要因として考えられます。
ニュースなどはエキセントリックな一部でだと分かっていても、極論をニュースで知り、だったら関わらない。
あるいは、実際に理不尽な経験をして、人とのかかわりを厳選する。
自分の思い通りに状況をコントロールしようとするために、他者とのかかわりを減らすのは、方法論として正しい。
両立しえないわけではないというのはキレイごとで、人は自分の思い通りには動きません。
ただ、子どもができると、地域住民との接点が生まれます。
子どもが生まれると
子どもがいると保育園・幼稚園の引率や役員を筆頭に、児童館や公園などでもだんだんと顔見知りが増えていきます。
現実、子育て中のママさんたちは、自分の許容範囲内というか、許容を超えていますが、さまざまなルートで情報を獲得されています。
一般的な情報はネットで調べられますが、身近な話題や噂話は、現実世界に軍配が上がります。
余談ですが、僕は近所のお肉屋さんの情報を、僕の奥様のママ友から聞いて訪れて、いまは肉はそこでしか買わないようになりました。
入り組んだ場所にある古いお店なので、誰かから勧められなければ入らなかったようなお店。
実直なご高齢のご主人が、とてもリーズナブルで味の良いお肉を売っていらっしゃる。
ただ、こういう店は、遠くない未来に亡くなっていくのも現実です。
子どもを連れていると、高齢者とのつながりも出ます。
わが家も子どもが生まれてから、周辺のご高齢の方々が、わが家の子どもを嬉しそうにかまってくれます。
これだけ少子高齢化になると、子どもは珍しい。
子どもが会話のメインとなって、近隣住民との橋渡し役になっています。
「何かあった時にお互い助けになることが近所づきあいをする良さ」という話がありますが、個人的には東京ではそれはレアケースと考えています。
誰かが倒れたので救急車を呼ぶのような場合は、即時行動は言うまでもありません。
対し、子どもが少し熱が出たので、近所のおばあちゃんが面倒を見るような状況が、いまどのくらいあるのか。
少なくとも僕の周辺では、一度も聞いたことがありません。
個人的にはここでも、リスク回避思考がスタンダードになっていると感じています。
受け入れ側が他人のお子さんを預かって、怪我でもさせたら大問題になる時代で、二の足を踏む。
僕の奥様は、ママ友のお子さんを、わが家の自転車に乗せて移動させるなど、人の子どもを預かったことはあります。
ただ、これも普段からお互いを知っていて、それなりに気を許しているから。
関係性の浅い他家の子どもを気軽に預かるのは、僕なら悩んでたぶん、お断りします。
では近隣住民と関係性が薄くて良いのか
現実のリスクを考えての消去法でもありますが、他の方法を思いつかないので、僕は良いと思っています。
少なくともこの先100年は、日本が昭和時代の地方のような、隣の家に子どもが勝手に出入りできる状況にはならないと予想しています。
近所づきあいが減って、残念に思うのは、違う年齢の人と接する機会の損失です。
大人は簡単に変わるものではないので、視点は子どもです。
話の長いおばさんや、いつも怒り顔のオッサンと、なんとか折り合いをつける。
単純接触効果(ザイアンスの法則)のように、苦手な人でも何度も接していると、いつのまにか親しくなっている。
失敗して怒られたりするのも、若いうちなら無問題。
大人になって、怒られるような状況なら、その先の近所づきあいは冷戦一直線です。
とはいっても、いま、自分の子どもが、近所の人にこってり叱られたとして、受け入れられるか。
経験がないので分からないのですが、一定まで受け入れて、どこかで介入しそうです。
このシナリオを考えてみて気づいたのですが、わが家の子どもはいままで一度も、近隣住民に叱られていない。
そういう時代なのだと再認識しました。
しかし、叱られる環境が必要とか、そういう環境になりたいかといえば、そんなこともなく。
別の方法でいくらでもやり方がある、と考えてしまう時点で、今風の発想で自分が生きていることを感じます。
根性論や感情論からは距離を置いて、何事もスマートにドライに。
それを見た子どもたちが、それが標準OSとして、自分の中にインストールする。
「本当に心揺さぶられるのは真逆である」ことを子どもが知っていれば、良いと思っています。
さいごに
コロナウィルス禍で、僕は在宅勤務になり、近隣住民と顔を合わせる機会が増えました。
テレワークになった人の多くは、同じ状況だと思います。
業務の合間や、ごみ捨てタイミングで、ご近所さんに遭遇する。
会社に出社していた時より、頻度は増えます。
会えばあいさつして「今日も暑いですね」などのたわいもない会話をする。
局所観測のわが家の周辺限定ですが、ご高齢の方でも、高圧的な人はいません。
時代の違いをはっきりとご認識されており、1対1の対人関係を意識しておられる。
現役世代のわれわれ側も同様、へりくだることもなく対等スタンスで接する。
こうしたフラットで一定の距離感を保つ現代風の関係が、僕には心地よい。
昭和時代に比べ、他家に踏み込むまないが、少し距離を置いてお互いを尊重して協力関係を結ぶ。
このようなスタンス以外、地域住民の全体幸福が高くなる他のやりかたを、僕は思いつけません。