子どもの迷子呼び出し放送が減った

スポンサーリンク
育児・子供観察

デパートなどでの、子どもの呼び出しを聞かなくなりました。
いまの子育て世代が子ども時代には、きっと頻繁に耳にしていた「黄色い服を着た男の子を預っています」放送。
時代が変わって、迷子になる要因が減ったと僕は考えています。
迷子は大変な事ですが、自分が子どもの頃は冒険機会の1つだったようにも感じます。

スポンサーリンク

はぐれた経験は半数弱

迷子が増えているかどうか、ネットで探したのですが見つからず。
代わりにどこで迷子になるかという情報がヒットしました。

はぐれた経験が「ある」親は44.8%
はぐれた子どもの年齢は2歳~5歳で54.0%
ショッピングセンターが1番はぐれる場所で70.1%
はぐれる理由の1位は「親が何か夢中になりすぎる」で38.4%

出典:親子での迷子に関する調査(30代~40代の子持ち男女対象)(リサーチ・リサーチ)

このアンケートは対象数が「子どもがいる人500名」なので、大きく間違っていないとします。
はぐれた経験がある親が半数弱(44.8%)と読んで、そんなにはぐれているのだと思いました。
というのも、やはり「迷子呼び出し」が減った気がしているためです。
迷子呼び出しが減ったかどうかは不明ですが、理由を上げてみます。

・少子化で子どもが減った(=呼び出し自体が減った)
・はぐれる人は一部のご家族に偏っている
・昔と違ってキッズ携帯を持っている子もいる
・親子ではぐれたときの取り決めをあらかじめしている
・はぐれても子どもが泣かなくなったので放置される
・知らない子どもが迷子っぽく見えてもうかつに声掛けできない社会状況
・自分が呼び出しのかかる施設や場所に行く機会が減っている

コロナ過で外出を控え、施設内を避けるようになったのは、今時の事情としてあげられます。
しかし、コロナ流行前から、はぐれ放送を聞く機会は減っていた。
それゆえ、子どもの迷子呼び出しを聞くと、新鮮に受け止めています。

少子化でさらに1つ思いつくのが、どちらかの親が子どもを見ている時間が増えている。
子どもがたくさんいた時代、たくさんの兄弟の中の1人とか2人が、どこかに行ってしまうのは、よくあったと想像できます。
それは、親の目が届きにくい環境ならではです。

子どもが3人以上いるご家庭はずっと微減、代わりに一人っ子はずっと微増です。
親も子どもを放置しなくなった時代、少人数の子どもに、2人の親の目があるなら迷子になりにくい。

いまの夫妻の子どもの数、日本はずっと2人が半分以上
少子化が進んでいます。 では、1夫婦あたりの子どもの数がどうなっているのか。 外国と比較して、日本の推移は特別な点があるのか。 夫婦の状況や条件によっての子どもの数などを見てみました。 子どもの数は戦後右肩下がりで減っている はじめに言葉の...

自分を振り返ってみると、僕は子どもと出かけたとき、子どもから離れる状況がほぼない。
だれに強制されたわけではありませんが、考えてみると、ほとんどの時間そばにいる。

ヘリコプターペアレンツにはなりたくないですが、物理的には一緒にいる状況です。

世知辛い時代

いまは子どもが事件に遭遇する可能性は低い時代です。

子どもを無事に家まで送り届ける
コロナ過で保育士さんへの感謝が増える。 僕もその気持ちに賛成で、現状の保育はコロナ過で厳しくなっていると思っています。 ただ、非常時とは言え、個人の頑張りに依存しているようでもあり、燃え尽き症候群の心配はあります。 そんな保育士さんに、僕が...

僕は東京在住で、危ない地域・怪しい場所が年々、減っていると感じています。
また、都会の人間関係は、他人に干渉しないのがスタンダードなので、それは犯罪増加要因ですが、そもそも不審者を見かけません。
あからさまな不審者は、いまは絶滅危惧種と言う面はあると思います。

嘘か本当か分かりませんが、ネットで子どもを保護した男性の話があり、誘拐犯扱いされ2度と子どもを助けない、というネタを読みました。
子どもを保護した成人男性のところに、警察が訪問し、あやうく犯人にされそうだった。
その警察へ通報した人は、現場を遠くで見ていたママさんグループ。

このお話、保護した男性もママさんたちも、善意で動いています。
いまは、不審者と思われる人は通報されるし、えん罪に間違われる状況も増えている。

世知辛いと言えばそうなのですが、時代が個人主義かつ、リスク回避社会に突き進んでいます。
こうした環境を総合的に考えて子育てするなら、自分の子どもは自分が責任を持つしかなくなる。
流行りの言葉「自己責任」になります。

僕が子どもと出かける時に、この考えが自分の中にあります。
ただ、子どもが親にべったりは、子どもが一定の成長段階までだと思っています。

たいていは大丈夫

僕の子どもの頃は、子どもに時間をかけられる社会情勢ではありませんでした。
よって、子どもが小学校入学前後になると、かなりの割合で子ども同士で遊んでいました。

スマホのGPSなども当然なく、どこかに行くにしても自転車で徐々に行動範囲を広げていく。
大げさな表現をすると、自分のテリトリー(知っている場所)を超えて、冒険をする。
規格から外れる、という表現が近い気がしますが、そこで学んだこともある。
そうした、動物本能のようなものが、自分の子どもの中で育っていってほしい親の願望があります。

小さな子どもは、親が視界の中にいて安心して遊べるのは、ある年齢まで大事です。
そこから先、未知の場所へ、大人なしで行く。
それを子どもがどのタイミングで挑戦させるのか。
親側も自信を持って、背中を押せるか。
言葉では簡単ですが、難しい時代になりました。

行動範囲が固定される子どもが多いのも、現代では一般的です。
たとえば、学校と家、いつもの公園や友達の家、習い事場所など、決まった場所の往復しかしない。
寄り道、道草の概念がない子どもがいるようです。

寄り道が必須ではないですが、気軽に枠外に行く訓練として、子どものころに経験した方が良い。
寄り道は身体も心も使って、新しい何かに触れる可能性がある、楽しみのようなものです。

ただ、いまの時代に寄り道を強く求めるのは、ミスマッチかもしれません。
安全を重要視するレベルが昔とは違っていて、外部プレッシャーもある。

なくなったものと考えるなら、どうするか。
親が枠外に連れていく意識は、持っておいた方が良い気がします。

子どもとの適切な距離

親が子どもとべったりの距離感の時出てくる言葉「過保護」と「過干渉」。
過干渉は、行き過ぎ行為で、そこに該当する人は多くないと思いますが、過干渉が虐待という表現は同意です。
ただ、自分が過保護と呼ばれる可能性はあると思っています。
そして、それが全面的に悪いとは思っていない。

幼児期、大きく羽ばたくために、土台固めとして子どもと目線を合わせて過ごす。
一緒にいる時間が長くとも、子どもが自立するような働きかけはできます。
与えるのではなく、子どもに「どう思う?」「どうする?」などもその1つ。
少し突き放しているくらいがちょうどよく、それは未来への種まきになります。

というのが親側のエゴなのですが、子どもが自然に適切な距離を取っているのも分かっています。
べったりの時期から、少しずつ離れていくのは、寂しいようでうれしい。

あえて子どもを厳しい状況に追い込むカードは、使うタイミングを見計らって出す。
「何でそんなことするの?」と子どもに言われても、毅然とした態度で挑む。
安定ばかりの状況を親が作っているのであれば、それは親が安心したいだけです。

親が先回りしすぎないように。
子どもが自分のペースで、歩き続けられるように。

さいごに

僕が子どもの頃は、デパートに家族で行くのは、年に1回~2回程度の大イベントでした。
おもちゃ売り場で、買って買ってと自分が駄々をこねた記憶もあります。
家族そろって出かける行為自体が、珍しかった。

いま、わが家の子どもに「デパートに行こう」と誘っても、たいして喜びません。
オモチャを買ってもらえないのが、分かっている経験からの判断ではあります。

家族で過ごす時間が、いまは以前にくらべ増えました。
その時、物理的に一緒にいるだけでなく、家族全員がうまい距離感を取る姿勢があると、楽しい時間が増えます。