手抜きではなくどこに力を入れるか

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育児・子供観察

日常的な料理に時間をかけない。
何かしらに追い立てられる現代では、一般的な発想だと感じます。
子育て期は特に、時間がないのは万人がうなずくこと。
時間を大切にするために、手を抜くというより、手を掛ける場所を厳選する発想は大事です。

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一汁一菜思想に賛成

料理研究家の土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』は、Amazon評価では好評価された1冊です。

・和食の基本として一汁三菜信仰が日本にはあるが日常では手間がかかりすぎる
・専業主婦でも大変なのに共働きではさらにきつい
・手をかけてもおいしいわけではない
・日常は一汁一菜でよい
・一汁一菜は素材によって味が変わるので食べ飽きない
・ご飯にかぎらずパンに変えるなどのバリエーションがあってよい
・おいしくなくてもよく、子どもにもお母さんが疲れていることが伝わる意味がある
・料理下手でも良く毎日作ってくれたいうことの方が子どもには大事

僕はこの本に書かれて内容に、賛成です。
現代人は、時間がないので、何か手を抜く必要性があり、その1つとして料理も含める。

この本で、1つだけ合わない人がいるとするなら、料理自体が苦手な人の逃げ場がない点です。
包丁も持ったり台所に立つこと自体が嫌だったり、子どもが自分は母親の手料理という愛情を受けられなかった、と思っても救済策がない。

とは言え、全員を幸せにするもの目指したとは思えず、この本は主に母親へのエール、手抜きを後ろめたいと思わないでください、という内容だと思っています。
あと、父親向けに「おいしい料理がたくさん出てくるのが当たり前と思わないで」もあると思っています。

効率化はスタンダード

スマホ依存でなくとも、いまは時間に追われるのが当たり前。
特に育児中のご家庭であれば、1日の内、自分の時間と呼べる時間がほとんどない。

仕事でも効率化は普通で、ダラダラやってよいことはありません。
いかにいまのタスクを工夫して短縮化する、そしてそもそもやる必要があるかの選別。
上長への印象も含め、結果を出すため、立ち止まっている余裕はない。

昨日と同じ仕事を求められる、業界・会社はあります。
ただ、それは特殊事例であり、AIをはじめとする変化の波は早く、新たなモノへの取り組みが日常。
やっている側は、良くなったのか効果があったのかわかりませんが、それでも歩みを止めていては、組織的にも人間的にも、窮地に陥ります。

こうして、いつも何かに追い立てられていると、どこかで破城も頭をよぎります。
立ち止まって路線変更できれば良いですが、歩みを止められない状況だったなら。

デジタル大辞林には手抜きの意味では「しなければならない手続きや手間を故意に省くこと」とあります。
手抜きの言葉自体、僕はネガティブなイメージを昔は持っていましたが、いまは意識して手を抜くことが必要と考えています。
このブログでも何度か、手抜き推奨と書いていますが、いまでもそれは変わっていません。

仕事でも子育てでも、手を抜くことに本気になっても良いし、他人が何かをいうところではなく。
時間を有効活用して、心に余裕を持つ。
余裕を持って物事に相対するのは、いまでは礼儀の1つだと思うようになりました。

料理する人も食べ物にも感謝

コロナ過になって、僕は在宅勤務になり、自宅で食事するようになりました。
僕のように、フルタイムで会社に出社していた人が、毎日家にいる時の食事をどうするかは、各ご家庭、試行錯誤していると思います。

自宅で食べる人が増えて、最初に考えるのが、食べ物を準備する人はだれか。
料理を作るのもそうですが、コンビニ弁当を買ってきたり、出前を頼んだりするのも、手段としては存在します。

ただ、ずっとインスタントなものを食べ続けるリスクを考えると、一定以上は料理をつくることになる。
結果、だれがいつ、どのくらい料理するのか(後片付けも含める)。

わが家は奥様と話して、役割分担し、約1年間、大きなトラブルなく回せてきました。
ただ、僕の奥様へのウェイトが大きくなったのは間違いなく、感謝とともに僕は義務として、出された料理に文句は言いません。

味付け等で未来を見据え直した方が良いことは伝えますが、ラーメンが出てきても不平はなし。
僕がもともと一人暮らしが長く、ヒドイ食生活だったので耐性はあります。
そして、ラーメンのようなものが出てくるのは、何らか事情があった時だけで、日常は野菜を含め健康的な料理が食卓に並ぶので、そもそも不満はありません。

出てきた料理に感謝して、おいしく食べる。
子どもに好き嫌いを指摘するなら、当たり前の行為。

自分達が恵まれた環境であり、子どもが食べ物を粗末にするなら、僕は雷を落とします。

さいごに

ドラえもんの道具で、一粒食べるとおなかいっぱいになる「チューイングピザ」があります。
食事作業化の究極の一歩手前で、最後は食べる行為自体がなくなる何らかのシステムになります。

昔、同僚に「食べるのがめんどくさく、なくなったら嬉しい」と言っていた人がいました。
食事に対する究極の効率化ですが、そういう生き方もあるのだ、と思った記憶があります。

僕にとっては、食べることは人生の楽しみの1つ。
コロナ過になって食事が、人生の中での大きなウェイトを占めていると、改めて感じました。