子どもの意外性を楽しむ

スポンサーリンク
育児・子供観察

大人の常識が通用しない子どもの行動。
「そんな風に考えるの」は日常茶飯事です。
それは大人にとっては意外でも、子どもには常識かもしれません。
常識の枠は大人になるほど強いですが、自由な発想は楽しいものです。

スポンサーリンク

大人が想定しない泣き理由

ある親子が参加するイベントの一コマです。
ある子どもが、他の子どもが自分と同じ靴を履いているのを見て「泣く」。

「ううう、あの子、あの子、ううう、靴、靴、履いてる」

自分が履いているのと同じ靴を履いている子どもをみて、感情が高ぶる。
もちろんその子どもの勘違いですが、小さな子どもにありがちな自分と他人の「境界」があいまいがゆえの発想。

大人であれば、たとえ同じ靴を他人が履いていても、それを見て泣く人はまずいないでしょう。
それは経験からくる「境界」がはっきりしているからでもあります。

自分の靴を他人が履くことはないルールで、社会は成り立っています。
自分とものは自分のモノ、他人の物は他人のモノ。
だれかに自分の靴を盗まれる、そんな状況はルール上はアウトです。

翻って子どもは、まずその一般ルールがわからない時期もある。
他人の靴と自分の靴が、同じ製品で合った場合、自分のモノか他人のモノかはっきりしない。
その境界線がうまくひけていない姿は意外でもあり、ほっこりシーンでもあり。

子どもならではの現象として、オバケを信じる(怖がる)もあります。

意外に出会うと

たいていの子どもは一定年齢になると「オバケ」を怖がります。
僕も子どもの頃を思い出してもそうですし、周りに聞いても同様。
これも現実と空想をうまく認識できていない、子どもならではの状態です。

わが家の子どもも一定の年齢のとき、順調にオバケを怖がるようになりました。
ある日の夜、僕にこんな問いかけをしてきました。

「おうちの中、オバケ、いないよね」

現実と空想の区別、もしかしてオバケがいるかも、と想像する力。
僕に抱っこされて恐る恐る問いかける、不安そうな顔が、子どもならでは。

絵本『ねないこ だれだ』が、きっかけだったのではと僕は思っています。
エンディングのインパクトの大きさ、その意外性は大人の僕が読んでも相当でした。

あらためて考えてみると、自分の常識からはずれていることは記憶に残りやすいです。

結婚承諾のあいさつ

ある男性が、お付き合いしていた女性にプロポーズして、女性がOKする。
次のステップで、女性のご両親に挨拶に行くとします。
現代でもどのくらいの男性が、そうした挨拶を行っているのかわかりませんが。

男性が女性のご両親に話す内容は、いまでも「娘さんと結婚を許可してください」くらいなのかわかりません。
古くは「娘さんをください」かもしれませんが、現代では、あまり使われないフレーズのような気もします。

何にせよ、あいさつに行く日程が決まっている。
ということは当然、妻になる女性から話は通っており、女性のご両親もその心構えができている。
女性のご両親が、「承諾」の意向なら、形式的というか儀礼的なイベントです。
逆に、何らかの理由で、その結婚に反対している場合は、臨戦態勢なのでしょう。
想像したくない状況です。

闘うのもイマイチですし、折れるのもその先を考えると根が深い。
顔を合わせた後、いかにうまく落としどころをみつけるのか・
最悪は物別れに終わるのか。

僕の場合、このイベントを平和的にこなしました。
僕の奥様側の根回しが良かったのか、ご両親はすでに娘と僕との結婚を承認していました。

ただ1点、いまでも、僕の奥様の父親の意外な行動が記憶に焼き付いています。

握手という意外性

僕は、奥様の実家に挨拶に行く当日、ほどよい緊張感に包まれていました。
結婚を拒否されるような要素が少ないと踏んでいた点が、その理由ではあります。
当時、僕の奥様は実家に住んでいたので、僕はそのお宅に一人で訪問しました。

家の前に到着して、一応、服装の乱れがないか確認。
早すぎず遅刻もせず時間調整して、約束の時間の3分前に到着。
インターホンを押し「どうぞ」の声をもらって玄関ドアを開けた時。

僕の奥様の父親がそこに立っており、笑顔で両手で握手してきました。

それも軽めの悪手ではなく、欧米人がするような、がっしり系の握手。
僕には想定外で、挙動不審だったと思います。
一応、一定の力を込めた握手を返したと思っていますが、自信はありません。

可能性は低くとも、結婚に反対されるシナリオも想定しての状況。
長期戦も覚悟しているるところに、試合開始前にいきなり「結婚を許可します」パンチ。

いまでも僕の脳裏に、あのシーンは焼き付いています。

さいごに

どのくらいの子どもが、替え歌を好きなのか分かりません。
わが家の子どもは、かなり替え歌が好きだと僕はある時気づきました。
お気に入りのアニメソングを、僕がその時に思いついた言葉で替え歌にしたとき。

目をキラキラさせて、本当にうれしそうに聞いていました。

僕はいつも子ども自身が自分で歌っているメロディーが好きなのか、と最初は思いましたが違う。
すぐに僕の歌詞をまねして、大喜びで自分も口ずさむ。

それ以来、僕は事あるごとに、意識的に替え歌を歌うようになりました。
雨降りや気温が低いなどの天候をもじって「お外はお外はさむいさむいー」のように。

定型ばかりではなく非定型に、日ごろから親しむ環境(意外性の日常化)。
自由に発想してよいんだと、子どもにも持ち続けてもらいたいと、僕は心の中で考えています。

現実には制約が多くとも、縛られない発想で楽しむのは、だれにでもできます。