ただえさえ子どもが言うことを聞かない時期に、どの程度料理に時間をかけるのか。
独身時代やある程度自由な時間が確保できる時とは違った考え方をする必要が出てきます。
しっかり手作りなのか、スーパーの総菜などを利用するのか。
料理の「理をはかる(料る)」という漢字にある通り、法則を見極める楽しさがあります。
料理という名のタイムアタックゲーム
僕はいまでも週末に出番があれば料理をしますし、夫婦二人の時期の週末は料理をしていました。
僕にとって料理は、1つの「ゲーム(的感覚)」でもありました。
ゲームの要素は2つ。
「タイムアタック」と「自分の想像と結果(味)」の主観評価です。
1時間の持ち時間以内に、どれだけの品数をつくり、一定の味になるのか。
いま振り返ってみると「料理の鉄人」というテレビ番組の影響もあったと思います。
「料理の鉄人」を知らない方のために少し補足すると、3人の料理の鉄人と呼ばれる有名シェフに、毎回違う挑戦者が料理対決。
使うテーマ食材も毎回変わり、制限時間内に何品でも良いので作って、審査員が味を評価するという番組。
アメリカでも大人気となった番組です。
その中で道場六三郎さんのイメージが近いです。
道場さんは最初に「お品書き」というものに、今日作る料理の内容を毛筆で書かれていました。
それを僕は自分の脳内で、手元にある食材でこれから1時間、どういう順番で作るかという献立です。
結果(味)は、思うように行くときもあり、失敗もあり。
そんな中、食材の組み合わせや、調味料の配分、火の通し加減など、少しづつ学んでいきました。
初心者レベルだった料理スキルも、少しづつ向上。
結果の味については自分ではまあまあ、実験台的な役割の僕の奥様の本心は分かりませんが、すくなくとも僕は料理の時間を楽しんでいました。
「料理1時間制限」はあくまで、自分で自分に課しているものです。
本当に料理が好きで、長時間作られるという方はそれで良いですが、僕は違いました。
僕の仕事への向き合い方も影響しており、ダラダラやるよりも期限を決めて、その中で最適解は何か考える。
こうして書くと、やはりゲーム要素(パズル感覚)があります。
一応ですが、僕の奥様含め、自分以外から厳密に1時間締め切りがあったわけではありません。
それが子どもが生まれると、圧倒的な時間制約の状況に突入していきます。
子どもが生まれて大きく変わる時間配分
子どもが生まれると、料理をする時間自体が取れない、子どもが「絵本読んでー」とすがり付いてくる。
たいていのご家庭の、日常の光景です。
その中で、どの程度料理に時間を割くのか、割り当てられるのか。
食材を買うのか、ネットスーパーなどで宅配してもらうのか。
食材をいちから仕込むのか、でき合いのものを利用するのか。
子育て同様、絶対的な答えはありません。
僕の方針は「手を抜けることはできるだけ手を抜いて、一部集中する」というものです。
手抜き料理と言われようと、スーパーで副菜を買い込むというのは、理想ではなくとも現実論で賛成派です。
食品添加物を減らして安全な食材を使いたい、という気持ちもあるので、手をかけられるのであればかける(集中)。
化学モノを特に小さな子どもの口に入れたくないという気持ちはあります。
それでも現代は、法の規制が一定に存在し、消費者優位社会。
ある程度の科学的裏付けがあり、何か不祥事を起こすと企業存続にも影響することもあります。
そんな状況で、危ない食べ物がどの程度あるのか。
と書いておきながら、やはり極端に単価の安いものは避けている自分がいることもあります。
余談ですが、昭和時代はいまよりも、食に対する規制も低かったと思っています。
口が真っ赤になるアイスクリームを、僕は喜んで食べていました。
にも拘わらず、いま、大きな健康障害は抱えていません。
まとめると、現代の食品は一定の基準の上で存在していると思っています。
時短食材などを活用して、少しでも睡眠時間を増やすなどは、僕は乳児期などは良い方針だと思っています。
実際、僕も市販の離乳食を使っていました。
そのうえで「料理とは何か」と言うことを、以下の本を読んで考えました。
「理を料る(はかる)」と漢字で書くのが料理
なぜ、料理をすると自分の存在が掘り下げやすいか。
きちんと作るべきように作るには、まず、物の本質と向き合わなければならないからです。
その次には、ものと物事の法則を見つけていく、ものと物事の法則と付き合っていく、従っていくことが必要になる。
「理をはかる」と書くように、料理には法則があります。
だから、その過程でやっぱり分かっていくんですね。
そして答えをすぐに「味」になって帰ってくる。
自然を手の内に扱い、物の本質と向き合い、ものと物事の法則に従っていく。
従わせていく。
こうすることで否応なく自我が落ちていくのです。
道元が禅寺の作務に料理を、典座の仕事を重大視したのは、この理由によると考えます。
漢字は普段は意識しないと、表意文字ということを考えないことが多いです。
僕は「料理」という漢字、この本に出合うまで、意識したことがありませんでした。
「理を料る(はかる)」、さまざまなモノの理(ことわり)を料る(はかる)。
調和がとれるとおいしさにつながる。
納得です。
時には意図的に流れに逆らっていくこともありますが、その場合、相当の抵抗が発生します。
物事の理(ことわり)、あるべき形や流れに逆らわずうまく乗ること。
台風に文句を言ってもしょうがなく、そんなもんだろう、と思って通り過ぎるまで受け流す。
時流を見て臨機応変・融通無碍に、自分が変化していけるとよいと思っています。
この本では自我まで落とし込まれている点が特徴的です。
自我怪獣である子どもと接していて、そうでなくとも自分の自我が削られいく子育て期。
そのうえで、さらに料理で自我が落ちていくとするなら。
僕は自我がゼロが理想とは考えておらず、年齢を重ねるとともに他者を考える余裕(彼我・他我)を拡大しつつ、自分(自我)の楽しみも忘れないようにしたいと考えています。
さいごに
現代の調理道具をフル活用して、食事の質を上げている例として以下があります。
複数の放置できる調理器具なども活用して、時短クッキングをする。
加工食品や偏った食事をするのではなく、時間はかけず手はかける。
料理軽視ではなく重視姿勢であり、その先に人生の生産性向上を目指すという姿勢。
勝間氏ならではの、やり方だと思います。
僕もわが家で複数の時短調理器具を置けるか、と考えてみましたが、わが家はそれほどスペースはなく。
それでも1つ2つ、導入することで人生の質を上げることは、価値があると思っています。
僕は料理をするようになって、もう1つ変わったこととして、外食時に食べたもののレシピを想像すること。
フレンチのソースを自分で作ることは考えませんが、素材の組み合わせやどうやって作るのだろう、とレシピを考えることは楽しみでもあります。
シンプルなものの組み合わせの難しさと深さは、パズル好きの僕にはたまりません。