子どもが天才かどうかより、子どもが何を楽しんでいるかを考えたい

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育児・子供観察

「自分の子どもが天才と思うときがある」というお話を、育児中や育児を終えられた方から聞くことがあります。
いままでできなかったことが、ある日、周りの子よりうまくできる。
それでも世の中には天才と呼ばれるような才能の持ち主がいます。
天才かどうかで一喜一憂するより、僕は俯瞰的に子どもを見ることの方が重要だと考えています。

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親戚のオジサンの「自分の子どもが天才」発言

親戚のオジサンと話していた時の事。
そのおじさんには孫がすでに数人いて、自分の子育ては随分前に卒業している方です。
「孫はかわいいが、歳なので相手するのが疲れるし、人数が増えるとかわいさが薄れてくる」という本音もちらほら。

そんな雑談の中で件の以下の一言が出てきました。
「ある時、自分の子は天才かと思う時があるけど、成長すると平凡と気づく」

子どもを持つ親であれば、だれしも「こんなことできるようになったんだ!」という時はあります。
気持ちの高揚感というか、実際に親側がウレシイ気持ちになるのは同意です。
しかし僕はこうした時、できるだけ気持ちを落ち着けて、客観的に見るようにも心掛けていました。

そもそも天才はどんな人なのか。

天才と呼ばれる人に一例としてのギフテッド

ギフテッドと呼ばれる人がいます。
日本語では「神から与えられた才能を持つ人」などと言われ、米国連邦政府では以下と定義していいます。

先天的に、平均よりも、顕著に高度な知的能力を持っている人のこと。
または、先天的に、平均よりも、顕著に高度な知的能力を指す。

出典:ウィキペディア ギフテッド(wikipedia)

また、以下のサイトにギフテッドの特徴がありました。

▼ギフテッドである可能性
・記憶力に優れ、物事を学ぶのが早い
・抽象的で複雑な概念を理解するのが早い
・就学前から読み書きができる
・特定の感覚が鋭敏
・長時間集中していられる
・ユニークな想像力・空想力がある
・パズルなど問題を解くのが好き

▼ギフテッドの苦手要素の例
・単純作業が苦手
・時間にルーズ
・人の話を聞かない
・強いこだわりがある
・興味があれば一心不乱に没頭するが、興味のないことは一切無視

出典:日本の教育に勝ち目なし。なぜアメリカは天才を量産して世界覇権を握り続けるのか?(Money Voice)

近年、日本でも流行っている「発達障害」という分類。
このギフテッドの特徴と照らし合わせてみると、発達障害児の特性がギフテッドの特性と近い、と感じる方もいるのではないでしょうか。
一部の能力が著しく高いが、それ以外が平均以下という極端なデコボコ。
実際にギフテッドと呼ばれる子ども達のなかには、障害児も含まれています。

このギフテッド、日本ではあまり認知度が高くありません。

アメリカは国家戦略としてギフテッド発掘を行っている

現代のアメリカやカナダが、このギフテッド発掘を国家戦略としてとらえています。
これが、いまでもアメリカが世界ナンバーワンである理由の1つと言われています。
アメリカでは、社会全体で早い段階からギフテッド発掘を行っています。

ギフテッドの教育の基本スタンスとして、長所を伸ばし短所は捨てるという考え。
アメリカでは飛び級が認められていることは日本でも知られていますが、まさにギフテッドは飛び級の筆頭。
知能の高い人を、少しでも活躍できる環境に、なるべく早く進ませる。
公立小学校にギフテッド専門クラスもあり、小学校低学年でプログラミングや、ロボット工学、プロジェクトマネジメントを学ぶ。

アメリカでは現在、そうした人々を認知し、社会全体でバックアップしています。
対して日本では、ギフテッドもそうですし、飛び級すらほぼ認められていない「横並び重視」。
いまの日本は、天才と呼ばれる人がいるということを、うまく受容できていない社会だと思っています。
それでも最近、選抜することの意味、それが子どもに好影響という認知、社会全体の影響を考えると効果的、と考える方が増えているとも思っています。

ギフテッドのような人がいると分かったうえで、わが子を見た時。
たいていの場合、ギフテッドかと問われれば、99%以上がNoだと思います。
回答がYesであった場合、それが本当であれば、それはそれで悩ましい問題がつきまといそうです。
天才であれば天才の環境を持つことも重要。
実際には、天才ということに気づくことすら、難しいかもしれません。

僕は自分が子育てをしてきて、天才かどうかより、その子が何を楽しんでいるかをまず考えたいと思っています。
現在の能力をなるべく客観的に評価し、伸ばした方が良いところを伸ばす。
年齢が小さい時期は、良いところをとにかく見つけて、ほめる。
苦手な分野を捨てるかどうかは、年齢も考えてケーズバイケース。

一般的には、子どもは経験値が低く、視野も狭い。
こうした点を補うことが、親の役目であり、天才かどうかは別問題。
そして現実は、親がどれだけ必死になっても、子どもに与えられる影響はそれほど大きくないとも思っています。

自分はデコボコのある平凡な人間

僕が知っている最も能力が高い子どもは、幼稚園年長で漢字をあやつる子。
その子は「一学期」という漢字が書ける能力を持っていながら、「一学木」と書いたことがある人。
「期」を「木」と意図的に書いたという例です。

最初、大人側は何を書いているかわからないので、コレが何かを聞く。
本人は「一学期」のことだと言い、その理由が以下。
「音は同じで、画数が少ないので、その方が効率的だと思ったから」

その年齢で両方の漢字の意味を知っていて、その上で社会的に正しいか別として、自分で考えて使い分けている。

子どもではありませんが、僕が社会に出て経験した中でも、たまにとてつもない人に出会います。
その中のある1人に聞いたところ、その人はだいたい通常3つ以上、頭の中で平行思考していました。
たとえば、会議に出席して決断しながら、自分が進めているプロジェクトをパソコンに入力しつつ、仕事や家庭の別のことを頭で考える。

知人の知人では、過去の記憶が完璧に残っている人の話も聞いたことがあります。
イヤな記憶も残るので、本人曰く、あまり幸福ではないそうですが。

こういう人達のことを考えると、自分の平凡さが理解できます。
そして自分の子どもが天才か、ひとつの物差しになります。

本当に一部の人が天才だとして、たいていの人は平凡とするなら。
冒頭の「自分の子どもが天才なのでは?」という話題の時、僕は悪意ではなく「そうかもしれませんが多分その可能性は低い」と心の中で思っています。

さいごに

飛行機がなぜ飛ぶのか?という問い、あなたは答えられますか?
「揚力」という回答をする方は物知りレベルで、「ベルヌーイの定理」という答える方はその上くらいだと僕は考えています。
現実は「分かっていない」というのが正解です。

以下の本にもその話は出ており、実は世の中、仮説だらけ。
いま「正しい」とされていることは、「いま一番、正しい可能性が高い」ということ。
しかも「正しい」は時代とともに変わるのが普通で、いまの正解が未来の間違いという事例はいくらでもあることが分かります。

デカルトの有名な「われ思うゆえにわれあり」という言葉。
「絶対に疑うことのできないもの」をすべて排除した結果、残ったのは「疑っている自分のみ」という結論。
何か物事を進めていてつまずいた時、そもそもの前提が正しいか再確認すること。

これは生きる上で身につけておくと、とても有用でもあり、生きやすくなるコツの1つとも思っています。
たとえばブラック企業で働いていたとして、そもそもその企業に所属する必要ありますか?というお話。
横道に逸れますが、ブラック企業でボロボロになって考える気力がない、という状況であれば、とにかく逃げる思考を持つよう、周りがサポートが得策だと思います。

そうでなくとも、超スピード変化の時代です。
今日うまくいったことが、明日間違っていることも日常的に起こる。
常に前提を見直すクセを子どものころからできてれば、変化の波をとらえる可能性も高いででしょう。

現代は、言われたことを正確にこなすことを求められた、牧歌的な「昭和」ではありません。
「不変のものはない」という言葉は、以前より重要度が増しています。