子どもの駄々っ子モードが全開となるおもちゃ売り場。
他人事なら微笑ましく、わが身の場合は絶体絶命のピンチ。
ただ、よくよく考えると、これほどクリアに自分の要求をするのもわずかな期間。
子どもが自分を殺し過ぎないよう、うまく自己主張できるようなってほしいと願うのは、全親共通です。
先輩社員に依頼する心理的ハードル
僕が所属している組織で、今年、新卒入社した人と仕事をしました。
ここではこの新卒の方を、Aさん(20代前半の男性)と呼びます。
僕は仕事を依頼する側で、Aさんは受ける側。
どちらかが上のような部門間格差はなく、同じ会社内のフラットな関係です。
総務のだれかに、プリンタの印刷用紙がなくなったので発注依頼するような関係です。
そのプロジェクトは10人弱のメンバーで構成されており、AさんはAさんの上長の横で、仕事をせっせと覚えている段階でした。
上長もOJTとして、いろいろ仕込んでいる良い雰囲気を醸し出していました。
Aさんはプロジェクト配属当初は、会議に出席しても一言も話さず(話せず)。
少し経つと、自分の意見を控えめに(というかモジモジ)、言葉尻が緩い感じで発言するようになりました。
それを見ていて、自分の新卒時もこんな感じだったのかなぁ、とボンヤリ見ていました。
Aさんからすると、こちらは同じ会社の他部署の先輩。
年齢も随分は離れており、ややもするとAさんの親とこちらは近い年齢。
一般的には、仕事なければ、話さないような年齢差かもしれません。
こんなAさんの僕への「仕事の依頼の時の態度」が、今回の話題です。
新卒が先輩に依頼する勇気
ある時、Aさんが作業するうえで、僕側が決めておくことがありました。
先ほどの、総務へのプリンタ用紙発注で例えると、「印刷用紙が欲しいなら所定の用紙に記入して申請」などのルールを決めておくようなイメージです。
Aさんは「小さいことなのですが、〇〇をやるのであれば、〇〇に記載してもらいたいのですが。。。」
こちらの目を見て話すのではなく、語尾の声量がどんどん小さくなっていく話し方。
大げさに言い換えると、以下のイメージです。
「本当にたいした内容ではないですが、できれば、急がなくて大丈夫なので、どこかで、お手すきの時に〇〇をやっておいてもらえないでしょうか」
Aさんの依頼はまっとうで、何の遠慮もいらない。
完全に晴れ渡った秋空のごとく、一点の曇りもない指摘です。
それを新卒のAさんが、他部署の先輩に依頼するにあたり「言いにくそう」に依頼する。
こちら側が依頼しやすい雰囲気を作り出せていないのかもしれません。
僕の勝手な願望ですが、組織では可能な限りフラットが良いと思っています。
Googleの心理的安全性のようなもので、だれでも気兼ねなく自分の意見が言えるのが理想。
ただ、仮にそんな状況が作れたとしても、やはり人によるところが多いのも事実です。
別の新卒のBさんに「言いにくい内容もお客様にうまく言えていますか?」と聞くと、「・・・言えません」と言っていました。
若者縛りではなく人によると思っていますが、先輩や上司に言いたい内容を気兼ねなく言うことは、日本社会では少数派かもしれないとも思います。
このAさんの「もじもじ」態度と真逆なのが、小さな子どもはストレートな要求です。
おもちゃ売り場定番の子ども劇場
一番、典型的な要求シーンは、おもちゃ売り場の「買って買って買ってーーー!!!」かもしれません。
床に寝転がって、泣きながら大声で要求。
あるいは、オモチャを掴んで、鬼の形相で「絶対に手放さない」アピール。
ただ、この姿も、ある年齢までの一過性の出来事(成長喪失)。
中学生になって、これをやる子どもはいません。
そして、たいていの親は、おもちゃ売り場が近くにないか察知する「おもちゃ売り場センサー」が、子どもが小さい時期、搭載されます。
センサー反応時は、素早く子どもを違うルートや、子どもの意識を別のところに反らす。
ただ、よくよく考えると、これくらいわかりやすく、きっぱりした要求は、大人社会ではほぼ見かけません。
学生時代にカップルが破局するときに「あなたが嫌いになったので別れます」と言う人は多分いない。
もしこの物言いを使う人がいたらら、それを受けた人は、そうとう凹むのが目に浮かびます。
たいていは、理由をオブラートに包む、あるいは相手がなるべく傷つかない別の理由に置き換えるなどします。
自然消滅もこちら側かもしれません。
話を戻して、子どもの要求のストレートっぷりが、あるとき変わってきます。
ミニカーが欲しかったとして、以前は「〇〇のミニカーが欲しい!誕生日はコレにする!」と言っていたのが、徐々に変わる。
「(商品パンフレットやYoutubeを見ながら親に聞こえるか聞こえないかの音量で)コレ欲しい」
わが家の子どもは、このタイプでした。
ある年齢から、ストレートな要求が、遠回しの要求に変化。
ストレートな要求は一過性のモノだと気づきました。
僕はこの変化を見ていて、自己主張をするためのコミュニケーションスキルである「アサーション」を思い出しました。
アサーションとは
「アサーション」(assertion)とは、より良い人間関係を構築するためのコミュニケーションスキルの一つで、「人は誰でも自分の意見や要求を表明する権利がある」との立場に基づく適切な自己主張のことです。トレーニングを通じて、一方的に自分の意見を押し付けるのでも、我慢するのでもなく、お互いを尊重しながら率直に自己表現ができるようになることを目指します。
アサーションの理論では、コミュニケーションを以下3つタイプに大別できるとされている。
・アクティブ(攻撃的)・・・自分を中心に考え、自身の考えを主張する
・ノンアサーティブ(非主張的)・・・自身の意見を押し殺し、他に合わせる
・アサーティブ・・・相手の主張を尊重しつつも、自身の主張を発する<各コミュニケーションタイプの例(遊んでいる子供にお使いを頼む場合)>
アクティブ(攻撃的):「遊んでばかりいないで、手伝いなさい」
ノンアサーティブ(非主張的):「あのさ・・・楽しそうだからいいや」
アサーティブ:「まだ遊んでいたいと思うけど、私としてはお使いに行ってもらえるとうれしいな」アサーティブなコミュニケーションを取ることで、不快な思いをさせないだけでなく「You・I・We メッセージ」のI/Weメッセージと同様の以下の効果が期待できる。
出典:アサーション(Weblio辞書)
だれでも、自分の欲しいものや、やりたいことがある。
しかし実社会では、それがすべて通るわけもなく、子ども時代は親の枠が存在します。
また、子ども社会の中でも、友達と共有オモチャの貸し借りや、鬼ごっこやチームスポーツの役割分担があります。
その中で、相手の要求も聞きつつ、自分の希望も提示して、調和点を見いだす。
大人社会でも、基本の流れです。
働くこともその1つ、「この金額で、この結果・価値を提供します」との調和点。
振り返ってみると「お互いを尊重しながら」は、大人でも難しい。
国内海外問わず、ニュースをみていると「その対応は子どもっぽすぎませんか」と感じる内容が散見しています。
ノイジーマイノリティーが相手を否定するだけのネット上のバッシングも、相手を尊重している姿勢ではなく。
だれかを自分の思い通りに動かすような無理強いは、たとえ一時、うまくいっても長期の関係にはなりません。
一昔前であれば、どんどん周りを切り捨てていても生き残れたかもしれませんが、ネット社会では一度落ちた信用は残ります。
SNSの過去の発言含め、積み上げた信用スコアの価値は、時代とともに高まっています。
僕はわが家の子どもには、相手を尊重しつつ、自分の意見も相手に受け入れやすい言葉で話す人になってもらいたい。
そのために親が子どもの言葉聞いて、一緒に考えて落としどころ見つけるのは、未来の種まきだと思っています。
親側の僕が気を付けていた点
僕は子どもの自己表現で気を付けている点が2つあります。
1つは、子どもの言いたいことをまず聞く。
もう1つは、自分の言葉で話させる。
生きていく上で、適切な要求を良いタイミングと、相手に伝わる言葉で話すのはとても重要です。
その前提として、子ども時分から「あれはダメ、コレはダメ」をやってしまうと、この芽を摘んでしまう。
幼少期は言いたいことをストレートに言える時期がある。
この時に親として、我慢と許諾のバランスを取っておく。
配分は我慢が多く、Okは少なめ。
「収穫逓減の法則」を持ち出すまでもなく、子どもに毎日ミニカーを買い与え続けた未来は暗いです。
僕はわが家の子どもが、もごもご要求している時は、無視するか突っ込みを入れていました。
「何か言いたいこと、あるんですかー」
そうすると、僕の目を見て「うんとね、〇〇がカッコいーから、欲しいの」
欲しいものがあるのは当たり前。
僕も小さな時、欲しいものができたとき、今度の誕生日は半年先だけど、あれにしようかコレにしようか悩んでいました。
無事、入手できた時はうれしかった。
どうしてそれが欲しいのか、代替手段はないのか、入手できないとどうなるのかを子どもと考える。
たいていは、最初は表層的な「だって欲しいだもん」とか「友達が持っているから」のような回答です。
それでは、僕は説得されません。
子どもはたいていは欲しい理由をうまく説明し切らず、初戦は撤退。
子どもの中で、自分の考えを練り直して、またどこかのタイミングで僕と話す。
このやりとりが、僕の思惑通り。
だれでも最初は、自分の使える表現や、言って良いか悪いかの判断カードがない(少ない)。
最初は、それをコーチング的に引き出します。
自分の中から紡ぎ出した言葉をたくさん持つのは、生きていくうえで1つの武器です。
さいごに
小さな子どもは、自分が知っている人、安心できる状況なら話しができても、そうではないときは親の後ろの隠れるのが常。
わが家の子どもも2歳くらいまではこんな感じでした。
それがある時、見知らぬ人と平気で話せる姿を見せる。
わが家の子どもは、自分が興味がある施設で、突然、係の人に質問をいくつも投げかけました。
「あれは、〇〇という名前。」
「これは、こうやって使うもの?」
「今日は、〇〇はないの?」
えええええーーー。
いつの間に、そんな先方が喜びそうな、マニアックな質問ができるようになったのですか。
いつもは僕の足にしがみついて、こっそり見ていたではありませんか。
小さな子どもが自分の仕事の、あまり知られていない部分について興味を持ってくれている。
僕が回答する側だったら、あとで同僚に「小さな子どもにこんな質問された」と自慢したくなるような。
子どもの成長はあっという間。
こうして、すぐに親(の想像)を越えていくのだなぁ、と嬉しく見ていました。