子どもと外出することで空を見るようになった

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育児・子供観察

結婚して、子どもがいないときの出かけ先は、当たり前ですが大人目線。
自分たち夫婦両方か、どちらかが行きたい場所に、ほぼ制約なく行けます。
コレが子どもができると、圧倒的に子ども優先。
それでも僕はそれが意外に良いこともあると思っています。

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出かける頻度が変わる

コレは人によると思います。
子どもができて、出かける頻度が増える人、減る人。
僕は出かける頻度が増えました。

1つにわれわれ夫婦の子どもへの姿勢がそうさせたというもの。
われわれ夫婦の育児スタンスとして「できれば雨が降っていなければ、外で遊ばせよう」と考えていました。

一応ですが、家の中にいて遊ぶ事も、僕は悪いことと捉えていません。
絵を描くのが好き、ピアノが好き、レゴブロックが好きなど、それは尊重すべき個性。
それが遊びであっても、何かに集中して取り組むことは、何であれ重要だと思います。

ただ、日中に雨天でなければ、外に出て体を動かすことは成長視点でイロイロ良い点が多いことも事実。
体の成長、脳の成長、外部刺激、失敗の経験など。
さらに現実的な大人側の事情としては、外で子どもがたくさん遊ぶと、疲れて夜早く寝る。

そんな発想で、できれば日中雨天でなければ、子どもと外出することを僕は意識していました。

子どもと出かけて世界が違って見えるとき

たとえば公園の砂場で、子どもが楽しんでいる時。
小さいうちは一緒に遊ぶことを求められることも多いですが、一定月齢になると子どもは一人で遊びだします。
ブツブツ独り言を言いながら、山を作ったり穴を掘ったりおもちゃで遊んだり。
子どもの頭の中の物語を勝手に想像しては、どんな内容なんだろう、と僕は微笑ましく見ていました。

そういう時の僕のスタンスは「なるべく手を出さない」。
人に迷惑をかけるようなことや、けがをするような状況でなければ放置。
服が汚れるのを見て「また洗い物が増える・・・」と心の中でつぶやきつつ、見て見ぬふり。
「失敗する経験を奪わない」ように、見守り放置です。

たまに子どもをチラ見して、問題ないことを確認したら、特にやることはない。
そんな時、僕は目の前にある当たり前の風景を意識するようになりました。

あー、この木、こんな幹の形していたんだ。
苔むしたところがあるなぁ、意外と胴回り大きいな、古い木なのかな。
葉っぱは大人の手のひらより少し小さいくらいか、結構大きいな。

東京でサラリーマンをしている人でシミュレーションしてみると。
朝起きで、自分や子どもの支度を慌ててして、子どもを保育園に預けて出勤。
戦争状態の朝準備を終え、地下鉄に乗って会社で仕事。
内勤であれば、ランチの時は外に出るかもしれませんが、わずかな時間。
夕方、退社時間にはすでに日が暮れている。
こんな毎日であれば、最後にじっと空を見たのはいつのころか。
それが子どもといると、のんびり雲を眺める時間ができます。

大人になってから、通り過ぎるだけで意識することがない一コマ。
待つ時間の暇つぶしでもありますが、こんな効率重視の日常とは逆の自分にあるとき気づきました。

そんなことを考えて意味があるのか。
効率視点ではゼロかもしれません。
生々流転、諸行無常、色即是空、落花流水、肯定的無常観。
僕は自分のことを功利主義的な考えが強いと思っていますが、効率重視も良いですがたまに立ち止まることを、子どもを持って強く意識するようになりました。

「子どもと公園にいることが苦痛」というお話があります。
確かに暇であることは間違いなく、言わんとしている気持ちも分かります。
ですが、家の近くの行き慣れた場所や状況でも、世界は広げられます。
そこで世界を感じられないようであれば、自分のモノを観る能力が足りないと自分と対話。

子どもに拘束された時間と捉えるか、自分もその時間を楽しむのか。
禅の「いま、ココ」に視点を置くこういう時間は、軽い疲労・倦怠もありますが、僕は良い時間と考えていました。

それは自分の時間ではないのか

何をもって「自分の時間なのか」、人それぞれの価値観があります。
僕はそれでも自分がそれを「やりたい」と思っていやっていることや、自分以外の誰かが喜んでくれる状況は、「自分にとって良い時間」と考えています。
平たく言うと「やらされ感」ではなく「当事者意識」でしょうか。

僕は、児童館で同じブロックで遊ぶような時も、できるだけ以前とは違うものができないか挑戦します。
そういう「変化」を自分で探すのも、大人の知恵と考えています。

「変化」と言えば空の雲を、大人になってじっくり見るとその姿に見とれます。
あの何とも言えない形、夕日に照らされて幻想的な色になっている時など。

立ち止まって、目の前の景色を見る余裕。
社会人として一定時間を過ごした中年には、新鮮な感覚でもありました。

「5時になりました、良い子は気を付けておうちに帰りましょう」という町内放送を聞くと、自分が子どもだったころを思い出します。

さいごに

綺麗ごとではなく、子育ては「拘束」「単純行為の連続」という言葉と切り離すことはできないです。
それはたいていの大人にとって、あまり心地よくない状況。
そうであるがゆえ、非日常を意識しようと、僕は子どもと外出していました。

たとえばストライダー好きな子どもが、いつもはアスファルトで乗って楽しんでいたとします。
「芝生に行ってみないかい?」と子どもを誘って、小高い山を坂として遊んだり、地面の穴もひとつの遊具になります。

父母それぞれの視点があり、それぞれ違った場所に目が行く。
両方の親の違った視点で、こんなとこいったら楽しいじゃない、というのも子どもにとって良い刺激。
オーソドックスに父親に求められる役割かもしれませんが、僕は「冒険」「新経験」というワードを意識していました。

子どもにとって「新経験」。
自分にとっては「再発見」。
子どもといると普段見落としていたことを知る機会ができる。
大げさに言うと世界が広がることだと思っていました。