家庭菜園で食べ物の大切さを子どもに伝える

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育児・子供観察

子どもに食べ物の大切さを教えるのは、飽食の現代では難易度が高いです。
社会全体が食べ物が少なかった時代であれば、いつも空腹なので必然的に食べ物が大切なのは分かります。
食品ロス削減推進法案が出ていますが、ある意味、飽食の現代ゆえです。
この時代に、子どもに食べ物の大切さを教えるのは、工夫が必要だと感じています。

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近年の食品ロスは横ばい

まず最初に、飽食の現代、どの程度食べ物が廃棄されているかを見てみました。
以下、消費者庁に近年の食品ロスに関するデータがあります。


出典:食品ロス削減関係参考資料(消費者庁消費者政策課)

4年間のデータですが、グラフではほぼ横ばい。
特に折れ線グラフは、国民一人当たりの食品ロスなので、一人ひとりの動向がわかります。
これも増えても減ってもいないようです。


出典:食品ロス削減関係参考資料(消費者庁消費者政策課)

もう少し長い期間の情報も同じ情報ソースにあり、これはごみ処理事業経費です。
ごみ全体ではなく、一般廃棄物処理事業のうち、し尿処理事業経費を除いたもの。
これを見ても2001年の2.6兆円をピークに、近年は横ばいです。

ここまでをまとめると、食品廃棄は2000年以前よりも減っている。
近年は横ばいです。
食べ物に困らない時代であっても、一定の節約思想が一般的のようです。
節約の行動として、個人が食べ物を廃棄しない工夫についてのアンケートがありました。


出典:食品ロス削減関係参考資料(消費者庁消費者政策課)

この情報は2017年のもので、2016年よりたいていの項目の割合が増えている、節約意識が高まっています。

僕は食事に対するしつけは厳しく育てられた

昭和生まれの人で、特におばあちゃんと一緒に住んでいた人は、たいてい共通の体験があると思っています。
それは「食事について厳しくしつけられた」経験。
ご飯粒を一粒でも残すと怒られる記憶です。

僕はおばあちゃんと一緒に住んではいませんでした。
しかし母親がこれに近い感覚の持ち主で、ご飯粒が茶碗に残っていると僕は叱られました。

それが何なのか。
いまでも、外食でも自宅でも、食べ残しに抵抗があります。
文字通り出されたものは一粒残さず食べたい自分がいます。

それでも、宴会など大量の食事が出る場合には、すべて食べられません。
また、食べすぎは体に毒という知識も身に着けました。
その結果、いまは目の前にあるものは、通常の食事量より少し多めまで食べる。
それ以上は無理とあきらめるような食べ方をします。

これは僕の価値観ですが、わが家の子どもにもできるだけ食べ物を残さないようなってほしい、と勝手な願望を持っています。

食べ物を大切にしない場合はしっかり叱る

わが家の子どもに、僕の考えとして知ってもらいたいキーワードは2つ。
①食べ物の大切さ
②最低一口は手を付ける

①の「食べ物の大切さ」は、大前提として親は子どもにしつけるべきだと僕は考えています。
それは作ってくれた人、材料を提供してくれた人への敬意です。
自分が育てたもの・作ったものを、適当に扱われのはたいていの人は不快だと思っています。
僕は子どもが食べ物で遊んだときは、しっかり叱ります。

②の「最低一口は手を付ける」は、これも礼儀だと思っています。
口に合わない食べ物を無理やり完食するのは違うと思っていますが、一口食べるのは配慮。

重ねますが、残さず食べたい願望が僕の中にはありますが、それでも限界はあります。
バランスがありますが、無理をして体調を崩すのは、悪手と考えてもいます。

食べ物の大切さをしるうえで家庭菜園は1つの埋蔵語

空気(がある)のありがたみを、日々、感謝している人はほぼいないと思います。
水も日本ではほぼ同様の感覚だと思っています。
水に敏感な、渇水が心配される地域や農業従事者などを除くと、感謝の対象になるケースは少ないでしょう。

では、食べ物はどうか。
お金があれば、食べ物は手に入る。
コンビニでも、スーパーでも、外食レストランでも。

お菓子など、子どもが好きな味のものが、100円ちょっとで手に入る。
この状況で、食べ物のありがたみを、子どもに持ってもらうにはどうしたらよいか。

正解ではないかもしれませんが、僕が実践してよかったと思っている経験として、家庭菜園があります。
たまたま僕は家庭菜園を、子どもができる前からやっていたのですが、これは子どもに好い影響になるかもしれない、とあるとき思いました。
子どもと一緒に好きな野菜の苗を買ってきて、実がなるまで育て、その場で食べる。

ある時、わが家の子どもはトマトが好きな時期があったので、トマトで実践。
春に土を作り、苗を植え、水やりを一緒にする。
だんだん大きくなってきたねー、黄色い花が咲いたねー、ここに実が付くんだよー。
夏に真っ赤になったトマトを、取って軽く洗って、口に入れる。
その時の子どもの笑顔も良いですが、この経験は数十年後に影響すると思っています。

あとは、屠畜場(とちくじょう)も、1つの手段だと思っています。
屠畜場は、牛や豚などの家畜を殺して解体し、食肉に加工する施設。
ショックを考える必要もありますが、自分が日常的に食べている鶏や豚が、どうやってスーパーの売り場に並ぶのか見せる。
きれいごとばかりではなく、物事の暗部に目を向けるのも、人間としての深みにつながると思っています。

さいごに

食べ残しで僕が連想する1つに、ホスト側の対応があります。
ホスト側とは、親せきや知人を自宅に招きく時の、受け入れ側の人を指します。

昭和時代にはモノ(食べ物)が少なく、来訪者にできるだけたくさんの食事をふるまう。
お土産も用意して、来訪に謝意を示すのが一般的だったと認識しています。

それがいまの時代は、逆の発想が特に都心部で普及していると感じています。
必要最低限のおもてなし、お土産もお客様が必要かわからないものは持たせない。
ケチっているのではなく、意図して簡素化、押し付けない姿勢。
これをスマートにできる人は、考えている人だとも思っています。

また、これも古い世代の話ですが、「魚をきれいに食べる」技術も、現代では貴重なものだと思っています。
魚を食べる機会が少ない時代に、若い人が焼き魚の頭と中心の骨だけ残してきれいに食べたら。

きれいに食べるのは、相手の命を大切にいただくこと。
いただきますの本当の意味を、実践していると言えます。