しつけは親の責任そして楽しみ

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育児・子供観察

子どもの「しつけ」はだれがするのか。
アンケート結果では、いまでも8割は親の責任と考えていますが、徐々に下がってきています。
親以外に責任があるとすると、それはだれなのか。
理由はどうあれ、社会環境から考えても、親が責任を取る選択が基本です。

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平均世帯人数は減り続けている

2020年5月1日の推計ですが、東京の人口が1,400万人をこえたニュースが、東京都より発表されました。
東京近郊など、都心部に人が集まるのが、いまの日本です。
都道府県別の人口流入割合をみても、プラスなのは関東4県(埼玉、千葉、東京、神奈川)、愛知、福岡、沖縄です。

移住した若者が都心部で生活基盤を築き、結婚し出産する。
都心部では住環境や仕事の問題で多子は難しく、少子化かつ親元からの距離が離れる確率が高くなります。
一応ですが、結婚や子ども「必要論」のお話ではありません。


出典:グラフでみる 世帯の状況(厚生労働省)

もともと、日本全体で見ても3世帯家族は多くなく、1986年が15.3%。
核家族化の進行で、2016年が5.9%になっています。

出典:グラフでみる 世帯の状況(厚生労働省)

世帯人員数を見ると、右肩上がりに伸びているのが、2人世帯と、単身世帯。
3人以上世帯が微増、4人以上世帯は減少しています。

祖父母と同居して子育てするご家庭は、減少していることになります。

だれがしつけをしていたか

一昔前の日本には長屋があり、隣の家との境界が薄く、地域で子育てしていた話を本やテレビで見聞きしましたことがあります。
実際にそうした環境にいたわけではないので真偽は不明ですが、想像するとそんな光景は思い浮かびます。

長い屋根の下に、複数の家があり、たくさんの子どもがいた。
祖父母が存命なら、一緒に暮らしている。
親は子どもに手をかけている時間がなく、年齢が違う近所の子どもたちが集まって遊んでいた。
悪さをする子どもがいると、自分の家の子どもでなくても、近所の大人達にも叱られる。

現代で、他人の家の子どもを叱れる大人がどの程度いるのか。
僕は、こちらに影響がなく、相手が近しくなければ、介入しません。
多分、これが現代の子育て世代のマジョリティだと思っています。

対し、昔は地域で子どもを育てていた感覚があったと聞きます。
いまは、核家族化と相互不干渉社会。
しつけは、相当な干渉となるので減っているのでは、と思ったところ以下の情報がありました。


出典:子供のしつけは親の責任であると思う(博報堂生活総合研究所)

全体としてはやや右下がりです。
1992年=87.4%から、2018年=81.0%と、6.4%ダウン。
しつけは親の責任と考える人が減っています。

出典:子供のしつけは親の責任であると思う(博報堂生活総合研究所)

もう1つ、トピックスだと感じたのが上記の年代別の情報です。
20歳代と30歳代の数字が、一番下がっています。
20歳代は1992年=82.1%から、2018年=70.5%と、11.6%ダウン。
30歳代は1992年=90.3%から、2018年=79.9%と、10.4%ダウン。
40歳代以上の年代は5未満ですが、20~30歳代は2倍以上の10%以上の低下。

要因が思いつかず、若い人たちにとって子育てが親の責任でないとすると、誰と考えているのか。
身の回りの20歳代、30歳代のママさんの話を(僕の奥様から)聞いても、みなさんしっかりされています。
「しっかりしている」と「しつけができている」はイコールではありませんが、一般論として自分で手を動かす人は、責任を自分事としてとらえるものです。

若い人ほど「自分たちでなんとかしないと、だれも何もしてくれない」と思っていると、僕は考えていました。
日本のこの先を見据えたとき、自分たちの将来展望が明るくなく、具体的には収入が増える要素は少なく、投げやり感でそうなっているのか。

僕は全年台、しつけは各ご家庭の問題と捉える人が増えていると思っていました。
現実、学校や近所にそれを求めても、これだけ複雑化した社会では、妥当な結果になるとは思えない。
そうであるなら、より両親側が自分たちの襟を正し、しつけるしかないと考える人が増える。

そもそものしつけとは

「しつけ」の言葉の意味が以下です。

社会生活に適応するために望ましい生活習慣を身につけさせること。基本的生活習慣のしつけが中心になるが,成長するにつれて,家庭,学校,社会などの場における行動の仕方へと,しつけの内容が拡大していく。しつけの目標は,社会生活の秩序を守り,みずから生活を向上させていくことのできる社会人に育て上げることである。また,しつけを効果的に行うためには,成長段階に応じた適切な方法をとることが必要である。すなわち,乳児期から幼児期にかけては親が範を示して根気よく繰返し,叱るよりも,上手にできたときにほめて力づけ,理解力が深まるにつれて説得に主眼をおくようにするのが望ましい。

出典:しつけ(コドバンク ブリタニカ国際大百科事典)

これを読んで、僕の考えとずれていた点は、しつけは「叱るものではなく子どもに理解してもらうもの」。
僕の幼少期は、まだ物理的にも殴られる行為が存在していました。
その時の感覚もあり、しつけは厳しくされることが近い感覚でいました。

しかし上記の通り、しつけの目的は「社会生活の秩序を守り,みずから生活を向上させていくことのできる社会人に育て上げること」。
体罰などの恐怖政治ではなく、自ら考え正しい答えを導き出す力がポイント。
後者が方法論として正しいのは現代風でもありますが、心理学でも立証されている内容で、いまの標準的な考え方です。

環境として、現代が子どものしつけにとって良くなった一例で思いつくのが、発達障害支援を思いつきます。
一昔前は、落ち着きのない子どもで片付けられていたものが、診断基準ができ発達障害がいまは一般的になりました。
実際面でも、相談する場所があったり、地域によっては行政から金銭支援がでるところもあります。
子どもが「どうしたら生きやすいか」をサポートする機会ができました。

専門的サポートだけではなく、公私どちらの教育でも、いまの基本姿勢は「厳格」ではなく「受容」です。
これが学級崩壊の一因になっている可能性も否めませんが、自分の周りを見ていても、一時感情的になってもそれを認識し、自戒するような親が増えました。

親が責任を持ちつつ楽しむ

子どもをしつける姿勢として「叱る」ではなく「褒める」。
人間、そんなにできている訳ではないので、たまに「叱る」ではなく感情的に「怒る」も、僕は普通だと思っています。

ただ、それを認識して、軌道修正するのが大人です。
人間のダメな点も、改善する姿勢も、子どもにとっては良い教材になります。
上記の「しつけの定義」の中にある「親が範を示して根気よく繰返し」は、自分の感情とのせめぎあい。
いまは、褒めるが主流ですが、客観的に現実を見る視点や、自分の弱さとの闘いなど、厳しさが前提にないと効果は薄いもの。

親以外の近親者である祖父母は、子どもがイタズラしてもしつけ的な内容は期待できません。
祖父母は孫に甘い、孫に嫌われたくないのは、見ていて分かります。

褒める言葉は、少なくとも僕が子どもの頃よりは増えた、自分もそうしているので感じます。
ただ、近隣住民、子どもの園や学校の関係者、習い事の友達など、そこにかかわる大人がお互いに深入りしない。
これらは、子どもにとって「しつけ」を受ける機会が減っていることにもなります。

その結果、しつけは親(保護者)が責任をとるしかない。

しつけができていないのを、学校や祖父母、周囲の責任にしても良いですが、それで何か解決するのか。
ルールに従うがすべてではなく、ルールを作るを求められる時代ですが、基本は必要です。
他人が話しているのに、自分の発言をかぶせていては、社会でやってはいけない。

子どもが自立するために、親がしつける(責任を持つ)。

と言っても、そんなに堅苦しく考えるものでもなく、なるようにしかならないのが人。
自分の子どもが「結果を出した」という時、その裏にたくさんの前提があって、その1つに「しつけ」がある。

カメの歩みでも、子どもが変化していく姿を見られるのは、親の醍醐味(楽しみ)です。

さいごに

自分でも認識している悪癖があって、長い間、修正できず、それをだれかに指摘されると腹が立ちます。
それが本質的であればあるほど、対応が難しく、逃げたくなる。

そういう「他人に突かれると痛い」部分を、相手に受け取れるように伝えるのは、ハードルが高い。
伝わらなければ意味がないので、言い方やタイミングは重要ですが、受け手に受け取りやすい言葉を選ぶのは基本です。
ティーチングやコーチング技術も使い、メンタリングにも気をかけ、フィードバックもできれば良い。
長い時間がかけられるという面では、親子関係は一つの理想形です。

相手にとって耳が痛いことを言うときは、発言側も胆力が必要です。
友人に指摘するなら嫌われる覚悟も必要ですが、親子間はこの点はリカバリがしやすい。

歳をとると、相手に嫌われても平気になるので、言いやすくはなります。