家族団らんと聞いてどんな状況を思い浮かべるか。
サザエさんの食事風景は、昭和時代に一般的だったとして、いまは時代が変わっています。
それでも、コミュニケーションの基本が、件のシーンには含まれています。
家族全員がそろうことはいまの時代で難しく、良い加減も求められています。
生活の充実感に変化はない
内閣府に「現在の生活の充実感」についての、アンケート結果があります。
出典:国民生活に関する世論調査(内閣府)
約30年の推移ですが、「充実感を感じている」割合は2001年が底の63.5%ですが、大きく上下していません。
「充実感を感じている」は「十分充実感を感じている」と「まあ充実感を感じている」を足したものです。
「充実感を感じていない」も、2001年が頂点の31.5%で、こちらも10%以内の変動率です。
「充実感を感じていない」は「あまり充実感を感じていない」と「ほとんど充実感を感じていない」を足したものです。
このグラフの中では2001年が、最も充実していなかった年であり、それ以降は充実感を感じる人が増え、感じない人が減っています。
2001年の大きなニュースとして、「米同時多発テロ」があります。
あとはインターネットバブル崩壊もありましたが、日本では1990年ころの本家バブルの崩壊のあともくすぶり続けていた物質主義の残り火が消え、精神面に重きを置く人が増えただけと、想像しています。
家族団らん時に充実感を感じる人が増加
先ほどのグラフの情報と同じアンケート結果の中に「充実感を感じるとき」という情報があります。
複数選択式のアンケート結果で、そのうち2019年のTop5の情報が以下です。
出典:国民生活に関する世論調査(内閣府)
2019年の情報の中で唯一、減少傾向なのは「仕事に打ち込んでいる時」のみ。
ここからも1つ目のグラフの同様、仕事から家族へ意識シフトが進んでいます。
充実感を感じる1位が「家族団らんの時」で、48.5%と約半数。
推移を見ても、徐々に右肩上がりしています。
2位以降のプライベート重視である、「ゆったりと休養」「趣味やスポーツに熱中」「友人や知人と会合・雑談」「仕事にうちこんでいる」も増加しています。
この文章、ここまでが随分長い前段で、僕がモヤッとしている点が「家族団らん」です。
アンケートに答えて人々は、「家族団らん」をどのように捉えているのか。
家族団らんとは
これだけ時代が多様化して、核家族化と個人主導になってくると、共通認識的な「家族団らん」は、すでに存在しないと思っています。
僕が家族団らんと聞いてイメージするのは「サザエさんの食事風景」です。
3世帯がお茶の間で、わいわい食事をしている、あのシーン。
サザエさんでは、円卓か四角宅かテレビ放送回によって違うことがありますが、1つの座卓に全員がそろっていて食事をしています。
部屋に存在しているテレビはついておらず、だれかが話していると他の人は話者に視線を合わせている。
作者の長谷川町子さんは、意図的にこの状況を描かれていると想像しています。
磯野家はたぶん、全員一緒に食事するのが当たり前で、たとえばマスオさんが仕事などでいない場合のみ不在なのがイレギュラー。
食事しながらの家族の会話があり、話題に上るのはとりとめのない日常。
長谷川町子さんは、昭和以前の家父長制度に対してアンチテーゼとしてサザエさんを描いていました。
昭和時代に普及したテレビや、進む核家族化に対して、同様に意図してこの構成を描いたのではと僕は考えています。
ただし、現代は、サザエさん的食卓風景は一般的ではなく、少数派になっている気がします。
傾聴力の重要度は増している
恋愛テクニックの王道で必ず出てくる「自分の話をせず、相手の話を聞いて肯定する」。
恋愛に限らず、仕事でも部下が上司に相談したとき、上司はパソコンを触りながら、顔すら上げない人もいます。
初期のマネージャー研修などで、チクリと指される内容です。
求められているのは話を聞く姿勢と「うんうん、そうだよね」のマジックワードで、これが有用なのはだれもが知っています。
人は感情動物なので、内容の肯定否定はひとまず置いておき、まずは聴く姿勢を持って肯定から入る。
相手の価値を認める姿勢で、話者に自己重要感を抱かせるものです。
相手に寄り添う姿勢として、求められる傾聴力です。
「聞く」ではなく「聴く」。
電話は斜陽通信手段ですが、相手と1対1でキャッチボールする点が特徴で、自分と相手のクローズな世界になります。
必然、会話に集中することになり、対話姿勢で考えると良い環境でした。
いまは電話以外のコミュニケーション手段が増えていますが、対話姿勢は電話から学ぶ点はあり、電話以外でも相互通話感覚ができるなら理想。
この、1対1で相手の話を聞く姿勢は、複数人が集まっての会話でも応用できます。
会議中に「何でこの人はこんな話をしているのだろう」と、予想ゲームと捉えるのも集中する方法として1つ。
これは相手の立場に立つ姿勢でもあり、コミュニケーションの基本です。
コロナウィルス禍で、強制的にリモート環境が増えたのは想定外でも、いろいろなところで「ある程度はこれでやって行ける」実績ができました。
この先、リアルな場ではなく、ネットワーク越しの環境が広がり続けるのは見えています。
リアルであれば、動作や雰囲気全体から、相手を予測できたものができなくなる。
そうなれば、傾聴力はいまよりも、重要度が増します。
ただ、技術におぼれて、話を聞いている体裁だけ装っても子どもは、分かっています。
子どもと普通に楽しむ
子どもは「自分中心」怪獣、「ちょっと話、聞いてよ」は普通です。
その子どもを「一人の存在」として認めるのは、いまの子育てのスタンダード。
それとともに、家族の一員でもあるので、どこかで「自分以外の人の気持ちも考える」ことも学んでいってほしい。
家族(チーム)の最大幸福化を目指すなら、家族全員がそれぞれの想いを伝え、調和点を目指す。
子どもがいる場では、話題が子ども中心だったり、子どものネタが多いのは、子どもが小さいうちは一般的です。
子どもの話を適当に流しもできますが、僕は子どもに見透かされていると思っています。
とはいえ、いつも真剣に話を聞くのは現実的ではなく、話しかけられたら子どもを見て「何だい」という姿勢を見せられるときは行動する。
また、現代の「家族団らん」の標準モデル化は、環境や状況が多すぎて難しい。
いまは「集まれる人が集まって、できるだけ会話が成り立っている状況」あたりが妥当な気もします。
家族団らんで話す内容は、内容の良し悪しや、深い話よりも日常風景が多くなります。
その日あったことや、近所の話題、時事ネタがベーシックで、重い内容は個別が良い時もあります。
親族の様態が思わしくないなどの重い話を、子どもにどのタイミングで参加させるか。
僕は、子どもの祖父母がそれほど遠くない日に死ぬと話していて、0歳からでも子どもに参加させる方が良いと思っています。
子どもを見ていると、大人の隠し事を察知する能力は、大人より優れていると感じます。
そんな子どもとコミュニケーションを目指すなら、先も見据えた「良い加減」を目指す。
あなたの発言を聴いていますよという姿勢。
相手が聴いてくれていると、自分がどう感じるかを経験してもらう。
大人側が会話をふくらまし、興味の拡大をし、楽しさの源泉見つけ方を学ぶ。
コミュニケーションがモノローグではなくダイアローグという実践。
難しく考えるものでもなく、子どもと遊ぶとき「一緒に楽しむ」ので良い気がします。
そうすれば、大人側も当事者として楽しめ、子どもに好影響が多い。
大人側が疲れている時に受け流す姿も、やましいと受け止めず、そういうやり方があると子どもが見て学ぶ教材、と割り切るくらいで良いと思っています。
さいごに
すでに日本は、子どもと一緒にいる世帯より、独身世帯が多くなっています。
児童がいる世帯は全体の1/4以下で、この先も減少していきます。
当然、磯野家のように3世帯も減少し、家族団らんとして一番多いのは、単身者世帯になります。
単身者世帯で、「家族団らん」はあてはまらなくなる。
「家族団らん」は、マイノリティ世帯に当てはまる言葉になります。