泣く子は昔に比べ減ったのか。
数値データが見つけられなかったので、真偽はわかりませんが、体感的にそう感じます。
それは大人も同様で、感情を表に出さないのがスタンダードな社会になりました。
だからこそ、子ども時代に感情発露経験は重要です。
子どもを言葉で追い込む大人
感情表現の1つ「泣く」。
子どもが泣くというと、僕の中で極端なお話を1つ思い出します。
僕の知人の父親は、子どもに対して特殊対応をする人でした。
実際にお会いしたことがないので、どこまで本当か分かりませんが、僕に話をしてくれた人は信頼のおける人なので、ある程度、真実に近いと考えています。
ここではその父親を「Aさん」とします。
Aさんは、一言でいうと、子どもに厳しく当たる人でした。
自分の子どもにも、子どもの友達も、見ず知らずの子どもにも、万人に対し理詰めで追い込んでいく。
たとえば、ボール遊びをしていた知らない子どものボールが、その人の車に当たったときの話です。
一般論でいうと、怒る大人だったとしても「あっちに行ってやれ」くらいだと思っていますし、苦笑い程度で許してしまう人もいると思います。
Aさんは違いました。
子ども自分のそばまで呼びつけ、大人と子どもの身長差も計算に入れているのか、上から強い言葉で追い込みをかける。
なぜここで遊んでいるのか、ここで遊んでよいのか、ボールが当たったのはなぜか、ボールが他人の器物を壊すような行為をなぜやっているのか、それは正しいのか。
僕の知人も、Aさんによって普段からこうした「詰め」にあっていたらしく、見ず知らずの人でも、いったん始まると「また始まったか」と嵐が過ぎ去るのを待つしかなかったそうです。
もちろん、僕の知人は、父親との外出は本当に嫌だったそうです。
たいていの子どもは、こわもての大人の男性から、厳しい言葉を浴びせられたら泣き出します。
Aさんは子どもが泣き出しても、手を緩めるめません。
自分が納得するまで、それをやめなかったそうです。
泣く子を見なくなった理由
上記は余談ですが、最近は子どもが泣く姿に余り遭遇しなくなったと感じています。
実際に「子どもが泣く」情報がないかネットで調べましたが、どり着けませんでした。
子どもが泣くのは、大人に比べれば日常的で、それを計測すると言っても、フワッとしてしまいそうな気もします。
データは見つけられませんでしたが、自分も含め昔は、もっと子どもが泣いていたような気がする。
最近の子どもが泣かなくなったかどうかは置いておいて、子どもが泣くシーンに遭遇しない理由を上げてみます。
・子どもが減ったので遭遇率が低い
・子どもと親が一緒にいる時間が増え、精神が安定して泣く頻度が減った
・子ども同士が以前より距離感を持つようになった
・子どもの友達で泣く子が減ったので、泣く行為を子どもが日常と考えなくなった
・満員電車など子どもが泣く状況を周囲が許さない雰囲気がある
自分の思い通りにならずに泣き叫ぶ2歳~4歳くらいの子どもは「癇癪(かんしゃく)」持ちと分類されます。
僕の子育て経験では、癇癪持ちと思われる子に出会ったのはわずか数例。
サンプル数が少ないので、たまたまの可能性はあります。
と言っても、やはり上記で上げた理由がいくつか思い当たります。
社会全体が子どもが泣くことを許容しない雰囲気であったり、そうした子どもがあまり表に出てこなくなっている。
たとえば、通勤電車は話題性が高いので、よく取り上げられますが、いまだに子持ち側が安心して乗車できる場所になっていません。
対し、児童館や子どもの相談先などは、以前に比べ増加し、子育て世代の強い味方になりました。
時代が、強い感情表現を許容する場所と、しない場所のすみ分けが進んだような気がします。
子どもばかりではなく、大人も感情発露が減りました。
大人の男性は泣く人が少なく女性は1か月に数回
子どもではなく「大人がどれくらい泣くか」の情報はありました。
男性2,883人、女性2,442人への調査結果なので、サンプル数は多い。
出典:泣く事に関する調査(富士経済グループ MPAC)
男性の1位は「ほとんど泣かない」の39.3%。
僕は男なので、見栄も含め、この結果に納得です。
女性の1位は「1か月に数回」の32.6%。
これは合っているのかどうか、分かりません。
体感としては、そんなに「泣いている?」なのですが、泣く行為を人に見せるのはそれなりの関係性の上なので、納得と言えば納得です。
僕はいまは在宅勤務なので、身近に同僚の女性はいません。
オフィスに出社していた頃も、女性の泣く姿は、ほぼ遭遇しない。
いまの時代、オフィスで泣くことを良しとしなくなったと思っています。
どんなシーンで泣くのか、のアンケート結果が、同じ情報出典元にありました。
出典:泣く事に関する調査(富士経済グループ MPAC)
すべての場所が、プライベート空間です。
先ほどのオフィス環境で泣く姿を見なくなったのは、正しいようです。
泣く行為の是非
大人になって泣く人が、増えているのか減っているのか分かりません。
根拠も証拠もありませんが、僕は減っている(微減)と予想しています。
いまは、他人と一定の距離を保ちつつ、スマートにこなしていく時代。
喜怒哀楽を個別に見ても、「喜」と「楽」は増えていますが、爆発的な感情というより節度を持つイメージ。
「怒」と「哀」は、重い感情なのでそれを表に出すことが限定される。
実際、最大パワーである「怒」については、街中で怒鳴る人をほぼみません。
そういう人を見つけると「まだ、いるのだなぁ」と、目立つ存在として扱われます。
さらには、アンガーマネジメントのような更生プログラムまで存在します。
いまは、似たような境遇であっても、個々の差を見つけ出す時代。
子どもを見ても、画一的にこの子はこんな子なので、コレが最適解は通用しません。
暴れる子は元気が良いではなく、ADHDの可能性なども視野に入ります。
対人関係では、どこまで相手に踏み込んで良いのか、相当に予測しセーフティーに倒す。
必然、一定の距離を置く関係になり、強い感情を相手に押し付けることがなくなります。
相互不干渉社会になり、泣くような感情行為、押し付ける行為が時代にそぐわなくなっていると感じます。
だからこそ子ども時代に感情の根っこを育てる
いまの子ども達が大人になった時、どんな世界になっているのかは分かりません。
僕の個人予測では、いまくらいの対人関係の距離感か、もう少し個人社会になっている気がします。
昭和以前の「村社会」、隣人の噂があっという間に広まったり、住民が一致団結する機会が多い社会に、この先、進む(戻る)とは思っていません。
そう仮定すると、いまの子ども達が大人になった時、感情交換する経験は少なくなります。
そんなものは必要ない、という生き方もありますが、人間が感情動物であることから目を反らして、うまく社会関係性が築けられれば良いですが、それも危うい。
いきなり大人になって、他人と深く付き合うのは、ハードゲームになるのは必然です。
恋愛経験ゼロで、中年になって婚活パーティで優位に立てるのは、よほどの人です。
たいていの人は、失敗や失恋を積み上げて、相手との距離感を体得する。
社会性は「体得」経験が優位だと、大人になればだれでも知っています。
そうであれば、子どもの頃にできるだけ、対人経験を積むのは、時期的には理想。
子どもこそ、泣きたいときに泣けば良い。
大人になると、自分の感情100%運転を続けるなら、だれからも相手にされなくなります。
対人スキルにゴールはなく、死ぬまで試行錯誤だと、いい歳になってハラオチもします。
目指すところは、たいていの場所で自分らしくいられる自信や経験を持っている状態です。
さいごに
昔は「子どもは泣くのが仕事」という物言いがありました。
過去形なのかどうか知りませんが、いまはほぼ耳にしません。
僕はこのセンテンスに違和感を持っています。
泣くのは仕事ではなく、泣かないで済めば、子どもだって泣きたくない。
泣いて知らせるのが仕事という意味だと取れますが、子ども側に立ってみれば「泣かないと分かりませんか」です。
この物言いが通用したのは、親が子どもに目をかける時間が少なかったころのお話だと思っています。
いまの現役世代では、この言葉が出てこない。
単純化・標準化が、受け入れられていた時代の牧歌的なお話で、現代は「個人」を尊重するため、そうはならない。
泣くにしてもなぜ泣くのかを、個々の状況から推察、かつ断定はしない。
今昔、どちらが良いかではなく、現代に生きる人間は現代のルールが基本になるだけです。