小さな子どもが、友達へプレゼントをする。
誕生日プレゼントをもらったのなら、お返しをするために親と考える時間も良い時間です。
その考える行為が、プレゼントのラテン語の語源である「前に用意する」。
大人になると、金額ではなくその行為自体が、嬉しく感じます。
小学生の友達へのプレゼント金額は500円未満が43%
自分の子どもが仲の良い友達に、誕生日プレゼントを渡したい。
それだけ仲の良い友達がいる事実に、親として嬉しさを感じつつ、軽く厄介なネタでもあります。
自分のお小遣いでプレゼントを買うと言われても、バランス的に妥当かの介入せざるを得ない。
小学校低学年の子どもが、友達に3,000円のプレゼントを渡そうとしたなら、相手の親御さんの気持ちも考えると、ちょっと考えてみようと止める。
出典:小学生が喜ぶ【誕生日プレゼント】予算や選び方は?(小学館)
上記グラフは、対象が小学生なので、6歳~12歳の幅があります。
この中で、3,000円を超える割合は5%なので例外扱いにするとして、1,000円未満が74%と大半。
500円未満は43%で、このくらいが妥当と思うのは、平均値から外れない点で妥当です。
受け取る側の立場になって、自分の子どもが友達から5,000円のプレゼントをもらったら、アフターフォローに頭を悩まします。
未就学だったなら
未就学児が友達にプレゼントするなら、まず本人のお小遣いの可能性は低い。
お年玉などで子ども自身のお金があったとしても、まだお金の価値や妥当性は難しい年齢。
仮にモノをプレゼントするなら、親が一緒に100均やおもちゃ売り場で見繕うのが一般的です。
未就学児が友達にモノを渡す場合、小学生以上の年齢よりも親側は気を遣います。
相手のご家庭の教育方針が見極めにくく、不用意なものを渡すのは地雷にもなりえる。
知り合いで、小学校に入るまで100%果汁ジュースやチョコレートを食べさせない方針のご家庭がいます。
言い換えると、年齢が若いと禁止項目・許容レベルがまちまち。
わが家の子どもが園児時代、手紙のやり取りが流行った時期があり、誕生日も誕生日カードの行き来がありました。
カードであれば、よほど特殊なギミックが仕込まれていなければ、値段的には親として平穏な気持ちで見ていられた記憶があります。
貰ったカードを僕も見せてもらった時、相手の子どもの覚えたてのヨロヨロの文字を見ると、月並みですがプライスレス。
「たんじょうびおめでと」のような短文ですが、これは少なくとも僕は捨てられない対象になる。
想像するに、相手の子どものママさんが、園の情報等でわが家の子どもの誕生日を見つける。
自分の子どもにカード贈ろうか相談をして、一緒にカードを買いに行って、良さそうなモノを選ぶ。
自宅に帰って、別の紙に下書きで書く文字を決める。
ときに、本番用カードにママさんが下書きして、子どもがなぞる。
相手のママさんのご配慮も考えると、「お金じゃないのだよ」と素直に思えます。
プレゼントはもらったのであれば、こちらも相手が喜びそうで、妥当な何かをお返しする。
文化人類学の「互酬性」を思い出します。
関係を継続したいのか
人類学において,贈答・交換が成立する原則の一つとみなされる概念。有形無形にかかわらず,それが受取られたならば,その返礼が期待されるというもの。アメリカの人類学者,M.サーリンズは互酬性を3つに分類した。
(1)一般的互酬性 親族間で食物を分ち合う行為など,すぐにその返礼が実行されなくてもよいもの。
(2)均衡的互酬性 与えられたものに対して,できるかぎり決った期限内に返済されることが期待されるもの。
(3)否定的互酬性 みずからは何も与えず相手からは最大限に奪おうとするもの。
これらの互酬性による均衡が破られたとき,当事者間には社会的地位の上下が生じるが,これはときには負い目意識となって,再び均衡がはかられる。このように均衡を求め続けることによって人間関係は継続し,進展しているともいえる。出典:互酬性(コトバンク)
子ども同士のプレゼントは上の3分類では、贈る側は「一般的互酬性」で、あまり見返りは期待しない。
受け取る側(の親)は「均衡的互酬性」で、何らかのお返しをしようとするのが大半のような気もします。
お返しをする気持ちについて、地域性も出るような気もします。
僕の感覚として、東京はつかずはなれず、程よい距離感を保つのが標準。
時に家族同士が深くつながるケースもありますが、それは確率的には低いと周囲を見ていて感じます。
必要な時に集まって、個々の用事があればさっと解散。
一緒に公園で遊ぶときには、お菓子などをお互いに渡すのは日常ですが、それ以外の物のやりとりは気を遣う。
何かいただいた時は、過剰にならないよう、妥当なものをさらっと渡す。
実家帰省時やディズニーランドなどのお土産も、基本的には渡さない。
子どもと一緒に相手へのプレゼントを選ぶ行為は、子どもの中に「1つの判断軸」として、蓄積されていくもの。
そもそもプレゼントには、事前準備があります。
ラテン語で「前に用意する」
プレゼントの語源は、ラテン語のpre(前の、事前の)+esse-ent(在る)で、「前に用意する」。
相手の子の好みを考える行為が、コレに当たります。
〇〇のテレビ番組が好きとか、最近自転車に夢中など。
そこから、もらってうれしいと思うものの中で、妥当な値段のものを選ぶ。
モノを送るのが不適であれば、手紙やカード。
子どものプレゼントのやり取りは金額ではない、というのは「ご馳走」に通じます。
御馳走の「馳走」は、本来「走り回ること」「奔走すること」を意味する。昔は、客の食事を用意するために馬を走らせ、食材を集めたことから「馳走」が用いられた。…さらに、走り回って集められた食材を使った料理や、もてなしに用意される食事から、ごちそうは贅沢な食事も意味するようになった。
出典:ご馳走/御馳走/ごちそう(語源由来辞典)
お客様をおもてなしするために、冷蔵庫のない時代に、食べ物を走り回って集める。
相手のことを考える視点は、昔も今も変わりなく。
親としては、子どもの友達が、自分の子どもと仲良くしてくれること自体がありがたい。
そのバイアスもありますが、子どもが仲の良い友達からもらったお手紙は、本当にうれしい。
英語で「プレゼント(present)」のもう1つの意味として、「現在」があります。
これはラテン語の「praeesse(近くにいる)」由来している。
子どもにとって、本当に仲の良い子の名前は、日ごろ子どもの口から連呼される通り、近くの存在だと感じます。
さいごに
子どもの友達に、手紙ではなくモノを渡すシチュエーションで、僕がこれは良かったと思ったものに「わが家の子どもが喜んだ同じもの」があります。
わが家の子どもが、友達から誕生日プレゼントに小物をいただき、お返しに悩んでいた時。
高額なモノも気を使わせてしまうし、ゲームなどは相手のご家庭の方針に差し障るので候補除外。
そんな時、親戚の人からもらったプラモデルが、これは良いのではと感じました。
わが家の子どもが貰った初めてのプラモデルで、初めて自作できた。
同年齢であれば、自作できる可能性は高く、好きなキャラクターを選択できる。
わが家の子どもも持っているので、相手に渡してもわが家の子どもがひがまない。
3つ目は、プレゼント趣旨からははずれますが、子どもは自分も持っていないのに、と言う可能性があります。
今のプラモデルは、対象年齢にもよりますが、色塗りや接着剤不要で完成度が高い。
モノにもよりますが、簡単には壊れないので、しっかり遊べます。