発言量が少ない人を指して、寡黙な人と呼ばれます。
本人の意思とは関係なく、外部評価では対人コミュニケーションに難ありと受け取られることもある。
寡黙であっても能力には関係はなく、どこにいても結果を出す人は評価が高い。
評価が高い人が寡黙だった時、仕事人と呼ばれます。
寡黙な人の特徴
僕はIT業界で長く働いており、周囲にプログラマーやデザイナーがたくさんいます。
この職種は、仕事の采配がかなりの割合、個人にゆだねられます。
その結果、一人で仕事を進めるのが好きな人が集まるのか、そういう仕事を続けられる人が残るのか分かりませんが、寡黙な人を何人も思いつきます。
以下、寡黙な人の特徴を上げてみます。
・口数が少ない、返答が短い
・口が堅い
・冷静
・客観的
・表情や感情が薄い
・共感力や雑談力が低い
・思慮深い または 何を考えているのか分からない
・人との関わり合いが苦手、コミュニケーションが取りづらい
・自信がない または 自信を持っている
・人と群れるのが苦手、他人に興味ない
・自分の核がしっかりしている、自己完結してしまう
・自省し、未来につなげる力がある
・会話が続かない、続けようとしない
・沈黙が多い
・自己開示、相談が苦手
・決断に慣れている
・言葉ではなく行動で示す、実行力がある
・好きな事、集中する対象がある
・マイペース
・無駄が嫌い、合理的
・争いが苦手
上記は、思いついた特徴ですが、強みにも弱みにもなります。
また、全部の特徴を備えている人がいるのではなく、上記のうちいくつかを備えている人が寡黙と呼ばれる。
どこからが寡黙に分類されるかの境界線はありませんが、寡黙な人と話好き(雄弁)な人がいたとして。
それを部下と上司のパターン別に、以下に分けてみます。
上司⇔部下 | 良い点 | 悪い点 |
雄弁⇔雄弁 | 会話が活発、お互いの理解度が高い | 不必要な時間、固定化、体育会系の悪ノリ |
雄弁⇔寡黙 | 意下達業務ではパフォーマンスが高い | 上司の独善、部下の意見は届きにくい |
寡黙⇔雄弁 | プレッシャーやトラブルが少ない | 部下側は上司理解が進まない |
寡黙⇔寡黙 | 仕事がしやすい人は最高の環境 | 意思疎通や情報共有ができない |
これも、お遊び的な分類で、良い点悪い点は状況によっていくらでも変わります。
寡黙な仕事人
発言量が少ないのに、一目置かれる人がいる。
一応ですが「寡黙」と「一目置かれる(良い評価)」に因果はなく、評価される人は何らかの結果を出し続けているのが正しい。
「雄弁」な人でも、結果を出している人はたくさんおり、口数の多寡は評価に無関係です。
その中で、結果を出しているの人が寡黙だと、仕事人と呼ばれることがある。
コレは40歳以上の人はたいてい知っているテレビ番組の「必殺仕事人」から来ているのではと、僕は想像しています。
寡黙な仕事人は、日常の存在感は薄いのですが、仕事を任せるといつの間にかゴールしている。
本人に聞くと、たいていは謙遜しつつ意図的に存在感を薄くしている。
仕事ができる人に仕事が集中する法則に則り、これ以上仕事を増やしてほしくないと常に考えている。
組織の規模が大きくなると、寡黙な仕事人がちらほら出てきます。
僕の経験では、仕事人の特徴は言葉選びが的確で分からないことは不明とはっきり言い、できるだけ客観的な情報を用いようとする。
不用意な言葉を使うのをためらい、回答には端々にこちらが受け取りやすい配慮がある。
回答スピードはたいてい早いのですが、口ごもる時は脳内で膨大な自問自答の結果が感じられる、なるほどそのパターンまで想定しているのだと感心しつつ、信頼がおける内容が返ってくる。
寡黙な人が現場メンバーなら、あまり大きな問題にはなりません。
管理職が寡黙な場合は、部下が相談しにくいケースが想定できます。
とは言え、上司は選べないの言葉通り、環境を嘆いても自分の未来が明るくなるわけではなく、上司が寡黙でも部下側でプラスと捉えるあたりを常識と考えておくのが良い気もします。
気軽に投げかけられない相手なら、自分の側で何度も校正する。
それが、思考力や配慮力、調整力など、自分で物事を動かす良い練習になります。
自分のできる範囲で、上司にアクションする。
意図通りに、上司が動いてくれたのなら、自信につながります。
時代はディスコミュニケーション
セクハラ、パワハラ、モラハラ、マタハラ、パタハラ、アルハラ、ジェンハラ。
告白ハラスメントの告ハラ、ズームハラスメントのズムハラ、いまはハラだらけの時代です。
ですが、ハラスメントも、たいていのものは本来あるべき姿を言語化しただけ。
セクハラは、女性にとって不快な言動が問題にならなかった時代がおかしく、特に男性側が発言内容を気を付けるのはフラットに戻っているだけです。
年齢や性別、思想に関係なく、一人の人間を尊重する姿勢がなかった時代のアンチテーゼ。
受動喫煙防止法などの法整備も同類です。
いまでは、組織内において〇〇ハラスメント管理職研修が当たり前になりました。
それも踏まえ「これ、言って良いのかな」と考え、微妙なラインだと言わない。
ハラスメントが原因のすべてではありませんが、人との距離感が半歩、遠くなった気もします。
その先に会話量が減り、寡黙な人が増えるのだとしたら。
「そうか、寡黙な人は時代の最先端だったのだ」というのはふざけすぎですが、安易な踏み込みに躊躇はあります。
思想信条、過去の恋愛など、パーソナルなお話は、よほどの関係性ができてからの話題。
心理学のラポールは、フランス語の「架け橋」が語源ですが、お互いの土地がつながってから密度が濃くなる。
僕は中年男性なので、中年男性が若い女性との話題に困る、という意見は良く分かります。
仕事で客先に出向くとき、若い女性と中年男性が2人で行く場合、タクシー内で何を話すか。
当日の仕事の認識合わせやチーム内の雰囲気などで車中の時間がすべてなくなれば良いですが、ネタが尽きた時、雑談するのか。
地雷を恐れて口ごもっても、責められるモノかどうか悩ましい。
それも、いまはオンライン会議が普及したので、こうした機会も減っています。
子どもに対して親が寡黙でよいのか
人との関係性が希薄化している中で、親と子どもの関係は変わるのかと考えると、そうでもなく。
フラットな関係性が標準と言う点は昔と違いますが、子どもとのかかわりは、それほど変わっていないのではないか。
いつの時代も大半の親は親バカ機能を備えており、自分の子どもの事になると、日ごろ寡黙な人でも熱が入る。
僕も親バカ機能を持っているので、他人がその人の子どもを褒めていると、口にはしませんが「いやいや、うちの子、最高ですよ」を持っている。
親も一人の人間として、自分のスタイルを持つのも、いまの時代では標準的な考えです。
その流れで、あまり話が好きではない性格の親が、それをどこまで貫くのかも、ある程度、個人にゆだねられています。
とは言え、仮に親が寡黙でも、子どもと何も話さないのは、現実的でもなく。
親が寡黙であればそれを生かす関係構築、子どもの話を相槌を打って聞いているだけでも良いし、本気で話を聞いてくれる人はそんなにいない現実を考えれば、貴重な存在です。
必要以上に自分を変えるのでもなく、相手を変えようとするのも悪手。
それでも、子どもの特性を見て親がある程度歩み寄る姿勢は、親子間では標準です。
それが、だんだん良い距離感になり、その二人にとって最適な空気感になる。
お互いの歩み寄りの必要がなくなる時、精神的な子どもの巣立ちかもしれません。
子どもにとって両親が健在なら、お互いの役割分担はあったほうが良い。
母親が受容の母性側だったのなら、父親が厳しめの父性になるなど。
これも、固定化するものでもなく、場合によって役割を入れ替えるのもいまは普通です。
フェミニストからの賛意はもらえませんが、一般論の脳科学でいうなら、社交性が高い女性が母性側なのは妥当です。
父親は「厳しめ」が良いと僕は考えていて、実際、わが家の子どもに、ダメな時は厳しく叱ります。
また、厳しさとは別に、日常的に簡単に答えられない難しい問いや、鋭い質問を投げかけます。
子どもにしてみるとめんどくさい父親だな、と思われるのも無問題。
叱られる経験が少ないのが、いまの子ども達のスタンダードだとして。
叱られ慣れ、レジリエンスの練習としても、うまく叱ってそこからの復活経験も重ねてほしい。
もちろん、感情的に叱るのではなく、叱られた側が納得感ある内容について説明付きで話す。
子どもを叱る時、叱る側が寡黙だと、叱られる側はインパクトが強くなります。
とは言え、寡黙な仕事人であれば、叱る強度もうまく調整できる気もします。
さいごに
自ら望んで寡黙になったのか、自分に自信がなく人と話さないのか。
両者には大きな隔たりというか、真逆の位置です。
寡黙な仕事人は前者で、対外的には静かな関係性を望み、自分の時間の確保に大きなウェイトを置く。
確保した時間で、自分のやりたいことを進め、そこから良い経験がストックされていく。
仕事でもプライベートでも、頭の中でたくさんの脳内会話しています。
あれを良くするにはこんな手もある、別の手段としてこれも使えるのではないか。
寡黙な人は、他人との会話が少なく、自分との対話が多い人なのかもしれません。