年中行事をやらない。
効率性を求める現代らしく、全体の流れは年中行事参加率は減少していると感じます。
僕も若いころは年中行事を軽視していましたが、いまは変わりました。
時間の経過でも風化しなかったのは偶然の要素もありそうですが、それは時に美しさを宿しています。
7段雛飾りを見て興味を示さない子ども
僕の奥様の実家では、いまでも7段飾りのひな人形が、ひな祭りに飾られます。
そのお家に女性性の子どもがいるわけではないのですが、なぜか継続している。
7段飾りは、かなりの場所を取ります。
せっかく飾ったので誰かに見てもらいたい、という気持ちは分かります。
理由は不明ですが、祖父はわが家の子どもに「見せてやってくれ」と毎年言われるので、実物を見に行きます。
ただ、わが家の子どもは興味を示さず。
ゲームやスマホを触っているのではないのですが、ひな人形いーよね、くらいの塩対応です。
僕はその興味のなさが一般的で、ひな人形で興奮する子どもはマイノリティと考えています。
自分の子ども時分、ひな人形だけでなく五月飾りなども、一ミリも興味がありませんでした。
僕がそんな子どもだったので、良い歳になるまで年中行事の意味も知らず。
子どもを持ってから調べるようになり、意味・由来だったのだ、と知ったものばかりです。
年中行事は意味があるか
世界各国、その国の古くからの文化と呼べる「年中行事」があります。
日本の「ひな祭り」もそうですし、男の子なら「子どもの日」。
「お正月」のように古くからのモノ、「ハロウィン」は新しいもの。
僕が思いつく1月~12月の年中行事と、主観の増減が以下です。
年中行事名 | 増減 | コメント | |
1月 | お正月 | 減少 | お雑煮を食べない、初詣に行かない、年賀状を出さない |
2月 | バレンタインデー | 微減 | 昭和時代のような義理満開の最盛期は終了 |
3月 | ひな祭り | 微減 | ひな祭りは都市部の住宅事情で小さなものが主流 |
4月 | エイプリルフール | 減少 | いまでも4月1日にウソをつく人がいるか |
5月 | こどもの日 | そのまま | もともと何もなく、そのままと言えばそのまま |
6月 | 父の日 | 微増 | 昭和時代と比べ、少し家族を大切にするようになったような |
7月 | 七夕 | 微減 | たんざくを飾る家庭はたぶん減少 |
8月 | お盆 | 減少 | 会社の夏休みの分散化、帰省も分散化 |
9月 | 十五夜 | そのまま | もともと地味で、いまも地味 |
10月 | ハロウィン | 増加 | 新しい行事として日本で定着 |
11月 | 七五三 | そのまま | 子どもが希少になので増加かも |
12月 | クリスマス | 減少 | バレンタイン同様バブルの頃のお祭りは終了 |
僕の感想なので、エビデンスはありません。
それでも、年齢や地域によって温度差はあるとは思いますが、総論、年中行事に対してドライになっているのが、現代日本だと感じます。
当時の意味とは変わったもの
そもそも時代として、そぐわなくなった年中行事もあると思っています。
七五三は、3歳までまで生きていれば、突然死する可能性が減るので、生き残りを祝う。
一昔は身近だった子どもの死が、現代には当てはまりません。
出典:平成30年(2018)人口動態統計月報年計(概数)の概況(厚生労働省)
100年ちょっと前までは、15.5%の乳児が亡くなっていた。
それが2018年は0.2%。
乳幼児突然死症候群は現代でも存在しますが、1900年と比べても現代の乳幼児死亡率は激減。
もっと古い時代では、さらに悪い数字なのは自明です。
一応ですが、子どもの死は、いかなる状況においても最大級の悲しみと僕は考えています。
どの親にとっても、自分の子の死に遇するのは、僕には想像でしかありませんが世界の終わりのようなもの。
それでも、昔の人が子どもをたくさん持つ理由の1つに、全員が育たない可能性を計算に入れている。
家(家系)の存続も念頭に置く考えは、祖父母世代からも聞いたことがあります。
乳幼児死亡率を持って、時代が変わったからその文化に意味がなくなったと言っているのではありません。
昔につくられた文化が、時代の流れで形骸化しているものもある、というお話です。
文化と美
では、文化が消え去って良いか。
僕は若いころはYesと思っていましたが、いまはNoに変わりました。
それは自分が年を取り、気になるようになった「美しいもの」とのつながりでもあります。
以前テレビのニュースを見ていて、(平成時代の)皇后陛下の着物に目が行きました。
調べてみるとそれは「小石丸」という古い純国産の蚕の糸を使った着物らしい。
テレビ映像越しですが、目を奪われる質感。
その艶と上品さ。
和服は日本文化の1つですが、僕は和装を1着も持っていません。
和服の「わ」の字も知らない、ど素人です。
それでも抽象的、直感で感じる「美しさ」。
物質の美しさの裏に、情熱やクラフトマンシップが隠れていることもいまは分かります。
広隆寺の弥勒菩薩が、ただの木造人形と思うのか、何かを感じるのか。
即物的、効率重視からは生まれない美を、最近のコモデティ化した社会のなかで感じます。
文化は拙速とは対極に位置するものが多く、余裕のない時代に削減されやすい危ういものもわかります。
実際、僕は日々の仕事の中では、効率化は大前提です。
若いころも効率は意識していましたが、歳を取って変わった感覚として、効率化して生み出した時間を「いかに有意義」に使うか。
たとえば、美術館であったり映画を観たり、本を読んだり。
何かを生み出すわけではないですが、違う世界を覗いて、自分にはない何かに触れ、現実に戻る。
自分にとって大切な何かに触れ、できれば自分の中に蓄え、新しい自分になる。
わざわざ時間をつくって、非日常に触れるのは億劫ですが、意識しないとやらなくなる。
子どもが小さいうちは自分の時間はほぼないので、余裕があれば1秒でも寝るのも、有意義な時間です。
また、その自分の時間がない状況を経験すると、時間の有限性が骨身にしみて分かります。
美を触れて、自分の中で咀嚼して醸成する。
深さに触れれば触れるほど理解できる、美しさへの恐れと、それに対する敬意。
文化がすたれるのは、美しさに触れる機会が減ることと直結します。
さいごに
僕は年賀状は数年前に卒業しています。
お雑煮も自宅で作っては食べないですし、おせちも買いません。
混んでいる場所が苦手なので、年末年始やお盆は、いまでも極力、長距離移動を避けます。
ただ子どもが生まれ、日本の文化の1つにお正月がある経験は知っていても良いと思いました。
おせち料理は日本の正月らしいと思い、その当時子どもが小さかったので、食材に気を使ったおせちを購入しました。
お値段もそれなりのモノです。
冷静に考えれば分かりますし、自分の経験からも想像できますが、わが家の子どもはおせちを一口も食べず。
おせち料理は、子ども向けの味ではないです。