ロボットタイム

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育児・子供観察

継続する能力は、生き残るうえで、大きな武器になります。
これは表面的なHow toではなく、リベラル・アーツのような、ベーシックなモノ。
子どもが何かに継続できるものを見つけたら、できるかぎり続けてほしい。
そんなとき親にできることは少なく、放置くらいが理想かもしれません。

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自分の特質の1つ

自分が普通にできることや、ずっと続けていることが、あまり多くの人はできない。
当たり前という固定観念ですが「あれっコレは自分が異常値なんだ」と理解する瞬間が、生きていてたまに発生します。

たとえば、文章がものすごくうまい人が、他人に「うまいよね」と言われても実感がわかない。
本人は「こんなの日本語なのでだれでも書ける」と考えているが、紡ぎだされる文章に周りは引き込まれる。
小説のように引き込まれないまでも、仕事上のメール1つとっても、スッと内容が理解できる。

たいていの場合、できる人はどこかにその蓄積があります。
文章が上手い人の例では、「考える」→「構成をつくる」→「表現する」の膨大な経験があります。
何を天才とするか微妙ですが、天才であったとしても、表現の蓄積や経験は必要です。

僕は、自分がある年齢まで気づかなかったのは「淡々と積み上げる」ことに対するハードルの低さがありました。
一例として、僕は陸上部出身ではないですが、若い時から今でも、緩いペースでジョギングを続けています。

続けること自体「まぁ良い習慣化ができたので、良い結果になるだろう」くらい軽く考えていましたが、数年前に流行った成績上位者、成功者が共通して持っている力「GRIT(やり抜く力)」で、その有用性を再認識しました。

また、僕が子どもを持ち、たいていの親が望む「自分の子どもが生き残るためにどうあってほしいか」。
積み上げることと、粘り強い行動は厳密には違いますが、どちらも大きな武器と考えるようになりました。

成功者や成績上位者が持つ素養GRIT

親バカあるあるの1つの「うちの子、天才かも」。
僕も思い当たる節がいくつもありますが、努めて冷静に考えるようにしています。

GRITでは、結果を出す人は、「天才」が重要ではなく、どちらかというとそれを否定しています。
僕はこの点が、このGRITが世の中に受け入れられたのは、と感じています。
「天才=成功率が高い」という結論だったら、「ああ、そうですか」で世間受けするとは思えず。

そのGRITの4つの要素は以下です。
G=Guts(勇気)
R=Resilience(回復力)
I=Initiative(自発性)
T=Tenacity(粘り強さ)

集中力が低い子どもに、どうやって「粘り強さ」を鍛錬するか。
成功体験はやる気を育てるので、一定の成功は年齢が低ければ多く経験できるレベル調整が必要です(あまり難しいことをやらせない)。
ただ簡単なことを繰り返しても、それが成長につながる可能性も低く、惰性化してしまう。

失敗はなぜそうなったのか、どうしたらよかったのかの生きた教材になります。
弱年齢の子どもに、失敗分析させるのは悪手。
それは、ゼロから何かを生み出させるような無謀な行為です。
一定までメンター側(親側)が「どういう状況だったのだろう」「どこでつまづいたの」「こうしたらどうだった」などサポートする。
考えるためツール、問題解決技法のような抽象的、汎用に使えるものを身に着けてもらう。

言い換えるとコーチングなのですが、コーチングの基本中の基本である同様押し付けNG。
子どもが頭ごなしに押し付けられて、続けられると僕は考えていません。
時代的に否定されている「根性論」も、僕は良い結果につながらないと思っています。

根性論ではなく人の心情を考える

気合が足りない。
こんな発言をすると、一気にネットでも叩かれる時代になりました。
その背景にある「昔からそうだったから」とか「いいからやりなさい」の言論統制、思考停止。
そこに本人の興味や、科学的な検証結果はなく、個人を尊重していないので、叩かれるのは正論。
ただ、叩かれている側は、あまり意に介していない、言葉が届いていないとも感じます。

本人が嫌なことを、やり続ける意味があるのか。
僕は、一定までは意味があるが、一定以上はさっさと撤退に一票入れます。
逃げ癖がつくのはダメですが、サンクコスト的にもしがみつくのもイマイチ。

僕は小学校時代、水泳とそろばんをやっていました。
身体を動かすことが好きなので、水泳に行くのは楽しみでした。
水泳の後に買ってもらうミスタードーナッツが、馬面に人参だったこともあります。

対してそろばんは、一定のところまで苦も無く進級したのち、壁にぶつかりました。
ダメな子どもの典型で、そこから逃げる。
実際には「そろばんに行く」と親に言って、外で遊んでいました。
当たり前すぎる結果ですが、翌月、親にばれて、こっぴどく叱られました。

この経験を一般化するなら、好きなことや成長している時点は続く。
嫌いな事や壁にぶつかったときに逃げる。

僕は人間は弱い生き物、これがマジョリティだと考えています。
それがゆえ、親としてわが家の子どもには、逃げる場面で踏みとどまれるよう、サポートを意識しています。

親ができることは環境作りのみ

子どもが何かに興味を示したら、やらせる。
ご飯を食べるのを忘れるくらい集中しているようなものは、邪魔しない。
僕の中の例外(矛盾)は、睡眠時間だけは別で、寝る時間はあまり遅くなってほしくない、と思っています。

子どもが何かにトライして、成功しているとき、続いているときは、感想を聞くくらいの軽めのコミュニケーション。
話したそうであれば、どんどん深堀や横道への質問を投げる。
「なんでそうなの?」、考えるとっかかりを投げ込んでおく。
言語化できれば、かなり体得している証拠です。

躓いたときは、少し厚めのサポート。
逃げがちな子どものモチベーション管理が最重要ですが、事象分解や解像度を上げるような質問を一緒に考える。
一時、興味対象からあえて離れるような、気分転換も時には有効だと思っています。

本人の意思を聞きつつ、硬軟使い分けて、状況や環境を整える。
それでもガチガチの管理のもとに、人の成長はないと僕は考えています。

さいごに

僕は脳をほぼ使わない単純労働は、脳の回転数を落として、処理を進めます。
言葉を発さず、ミス発生の懸念から別のことも考えず、目的の処理を軽く検証しながら進める。
自分はその時間ロボットに近いと思っており、ロボットタイムだと考えています。
ちなみに、自動化できないか考えるのは、前提にあります。

こうした単純労働のようなものについて、祖父(義父)の行動を見ていて、思うことがあります。
僕の祖父(義父)は、単純作業時をするとき、鼻歌を歌っている。
「ふーんふんふーん」と歌いながら、茶碗を洗ったり、草むしりをしたり。

オフィスワーカーで鼻歌を歌う人がいたらマズイですが、それが許される状況なら、少しでも楽しみを入れるのはアリ。
こうしたものは「生きる知恵」のようなものだと思っています。

昭和初期世代の男性が、台所に立って食べた人、全員分の食器を洗うのは、珍しいとも思っています。