ゴメンって言ってもらう

スポンサーリンク
育児・子供観察

他人に謝罪を要求する。
わが家の子どもがあるとき、母親にまっとうな謝罪を要求しました。
謝罪要求はともかく、子どもが言いたいことを言える環境は、僕は心掛けている点です。
そして謝罪も必要ですが、より重要なのは再発防止策です。

スポンサーリンク

満員電車の特殊技能

僕が電車通勤していたあるとき。

その時僕が乗っていた電車は、100%を超えるくらいの乗車率の電車でした。
参考までに、乗車率の定義は以下です。

[100%]=定員乗車。座席につくか、吊り革につかまるか、ドア付近の柱につかまることができる。
[150%]=肩が触れ合う程度で、新聞は楽に読める。
[180%]=体が触れ合うが、新聞は読める。
[200%]=体が触れ合い、相当な圧迫感がある。しかし、週刊誌なら何とか読める。
[250%]=電車が揺れるたびに、体が斜めになって身動きできない。手も動かせない

出典:混雑率(社団法人 日本民営鉄道協会)

混雑電車では、たいていの人が特殊技能を発揮します。
「周りの人は岩」と思い込む。

隙間がなくなるくらいの乗車率になると、否が応でも身体的接触も発生する。
僕はオッサンなので、冤罪はつねに注意していますが、前に女性がいても押し込まれる経験はあります。
極力、その状況にならないよう場所を移動しますが、女性と接触せざるを得ない状況なら、とにかく両手を上にあげておきますが、心の中ではヒヤヒヤ。

読書やスマホを見るのもできない混雑車内では、お互いが透明人間モードです。
透明人間同士なら、物理的接触もゼロなので、何万人でも電車に乗れるのか、と意味のない思考をして時間が過ぎるのを待つ。

不快感が高いこの状況、ある程度「お互い様」で成り立っているものだとも思っています。

わかっていても謝らない大人

電車の中ほどに乗車していて、自分が降りる駅に着いた時「降ります」と声かけをして出口に向かう。
身体がすこしぶつかることがあっても、スイマセンくらいで、お互いの距離感を保つ。
大半の人が、こんな感じで、電車利用をしていると思っています。

それでもたまに、大人らしくない、と思うシーンにも出くわします。
たとえば持っている傘が倒れて、他人に当たっても何も言わない人。
スマホや携帯ゲーム機に集中しているのか、電車の揺れでだれかの足を踏みつけても意に介さず。

ある時、僕もかなりの痛みの被害を受けました。
立っている人との肩は触れない程度の乗車率の電車で、僕が立って本を読んでいたら隣に女性が乗車してきました。
その女性はスマホに夢中になっている。

停車タイミングで電車がブレーキをかけた時、女性がふらつき僕の足を踏む。
その靴がハイヒール。
ヒールって凶器だ、と体感できるものでした。

加害者側はさすがにマズイと思ったのか、僕から一歩遠ざかり、こちらを見つめる。
窮屈な車内で、よく一歩遠ざかれたなぁ、と意味のないことを思いつつ。
何らかの一言がくるのかと身構えていたら、何も言わずスッと目線をスマホに戻す。
そして次の駅で降りていく。

なかなかに「剛の者」でした。
僕は謝罪行為は意味が薄いと考えていますが、この場合、たいていの人は一言いうのが大半だと思っています。

大人同士の謝罪はさておき、わが家の子どもが母親に謝罪を求めるシーンがありました。

「ゴメンって言ってもらってくる」

ある時、わが家の子どもと母親が、些細なことで行き違いを起こしました。

子どもが「牛乳飲みたい」と母親に告げた時、たまたま牛乳を切らしていました。
子どもがその時期、牛乳が好きで、いつも買っておいてほしいと言っており、母親は切らさないよう心掛けていたが、たまたまその時はなかった。母親に「ないものはない」と告げられた子どもは、しぶしぶ引き下がりました。

子どもは、その後、母親と一緒にいるのが気まずいのか、家の中で僕と二人で遊んでいました。
しばらくして、子どもがボソッと一言発言した内容が以下。

「さっきの、さっきのアレ、(母親に)ゴメンって言ってもらってくる」

察するに、わが家の子どもの中で先ほどの事象、ハラオチしていなかった。
いつも牛乳が飲みたい自分の要求は伝えていて、その牛乳が今日はないのが納得できない。
その不平を母親に言って、母親は間違っている、と伝えたい意思表示。
そんなことを、たどたどしく僕に説明してくれました。

僕は「行っておいで」と背中を押しました。

子どもの機嫌取りではありません。
子どもの意見が、彼の視点から見て筋が通っていると感じたためです。

一応ですが、牛乳を切らすのは日常的に起こるため、僕は今回は母親に軍配が上がるとも思っています。
ただ、子どもが正しいと思ったことを、言う機会を押さえつけたくない。
結果、わが家の子どもは母親に、感情的にならず汚い言葉も使わず、自分の意見を言っていました。
それで牛乳が出てくるわけではないのですが。

「自分が正しいと思ったことを、正しく主張する」

その前提に、お互いの信頼関係、言いたいことを言っても許される、良い環境があります。
子どもにとって自分たち親が、少なくとも圧政環境にはなっていないと感じる場面でした。

大人の謝罪は本人の自己満足

以前も書きましたが、僕は大人社会では謝罪は無意味、再発防止策に意味があると思っています。
現実には、波風が立たないように、自分に非があれば一言謝罪は行います。

トラブルが発生して謝罪のみであれば、それが何か未来的につながるのか。
仕事の締め切りが守れなかったとき、「申し訳ありません」に僕は興味はありません。

原因が何か、それがどの程度不可抗力によるものなのか。
再発防止策は考えられているか。
これがなければ、その人は次のチャンスがなくなるだけで、それ以上でも以下でもなく。

交通事故に巻き込まれて病院に運ばれて、必要な書類が届けられなかった。
こんな確率的に低いケースは、再発防止策は考えるのは意味がないとも思っています。
しかしそれが寝坊であれば、それは再発防止策を考え実行し、以後発生しなければ良いだけ。

ただ、子どもに謝罪は必要だと思っています。

子どもは謝る事しかできない

子どもが何か悪いことをしたときや、友達にケガをさせてしまったとき。
周囲に対し、取れる手段は「できるだけ誠意を込めた謝罪」しかないと思っています。

子どもには難しいですが、客観的視点で、社会のルールと照らし合わせて、間違っているか考えてみる。
自分が間違っていれば相手に謝罪、納得がいかなければ対話でどこに間違いがあったか検証する。

そして、相手と決着点が見つかった後が大事。
何でそうなったのか、どうすればそうならないのか。
相手の心情を慮るために「自分が相手の立場だったらどう思うのか」を子どもと一緒に考える。
重要なのは自省(客観的な要因分析)と再発防止策です。

大人同士であれば、どうしても納得ができない最終解決方法は、民事裁判などでの金銭解決があります。
民事裁判は保護者が対象になるため、子どもには当てはまらない。
消去法的ですが、現実的にその場を治める方法として、謝罪しか残っていません。
そう考えると、子どもは保護者の庇護のもとなので安全のような、窮屈のような。

さいごに

「あの頃はよかった」というフレーズがあります。
僕はこのフレーズには違和感があり、年齢を重ねる毎に、現在の方が良くなっていると感じています。

理由を考えてみると、若いころの無知、恥ずかしいことだらけが嫌、と思い当たります。
その古傷に触ると、まだじんわり感じる、外科縫合の傷跡のような。

それを否定しているのではなく、自分はその経験の上に、今があるのも事実です。
いまでも十分、若輩者ですがその頃の自分に声をかけるなら「まだまだ青いな」です。

中でも、最上級に意味がないと思う点が「他人の目を気にする自分」。
だれかに変だと思われないか視点で、自分が何をやりたいのかと向き合っていない。
見事に自分で作った檻の中に、自分から入り、窮屈だなぁと勘違いしているおサルさん。

いろいろ経験して、そこそこ考え、なんとか今日までサバイブしてきた。
苦しいことの方が時間的には多かったと思うのですが、振り返ると楽しい記憶が多く残っている。

嫌な記憶は薄らぐ。
心の防衛本能が、見事に働いていると思っています。