子どもが公共交通機関で立たせるか論争とコミュニケーションの断絶

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育児・子供観察

「公共交通機関で子どもは立つべきか、座らせるか」論争。
僕の意見は「たいていの場合は子どもは立っていた方が良いが、状況によって座らせた方が良いこともある」です。
絶対に立たせるべきという押しつけも危ない状況もあり、子どもの権利を保護者が声高に主張するのもどうかと思っています。
受容を前提とした譲り合いというのが、良いように思っています。

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「子どもは立つのが当たり前」論争

公共交通機関で、お年寄りと子どものどちらが座るか。
「お年寄りに席を譲る」という選択をする方が一般的には多いと思っていますし、僕も大半の状況では同意見です。

ただ、「子どもは立つのが当たり前」と、それ以外の選択肢を認めないような、声高に主張することには違和感があります。
この「子どもを立たせる」原理主義の人々は、比較的年齢が高い人が多い気がします。
ご高齢の方は、それが自分たちの当たり前の時代で育ちったという時代背景はあったと思います。

僕が「子どもを立たせる」側の意見で納得できるのは、「バランス感覚が養われる、身体によい」というもの。
電車でもバスでも、移動車内で立っていれば、揺れる状態の中で自分の体勢を保つので、身体感覚に良い影響を与えるというのは妥当です。

後はたいていの場合当てはまると思うのが、「子どもの方が高齢者に比べ体力があるのでご高齢の方に席を譲る」という点。
これも子どもの年齢(小さな子どもは体力がない)については考慮点です。
子どもが小さく満員電車などでは、立たせておく方が危険になることがあります。
この場合は「子どもを座らせる」方が良いと思っています。

子ども連の親が「子どもが座って何が悪い」と開き直るのもどうかと

上述のように、状況によって子どもを座らせないと危険と判断するようなことがあったとします。
それを誰かに指摘されて、保護者が逆ギレのように反論するという話も聞きます。
多分、言われ方にカチンときている可能性が高いのではと思いますが、興奮して反論するのはイマイチです。

指摘する側がどんな言葉なのか、どれくらいの音量なのか不明ですが、多分、かんに障るような物言いをされた予想できます。
それでも、まず考えることは「その指摘の妥当性」で、言われたから感情的に言い返すのは子どもです。
「ばーか」と言われて「お前の方がばーかだ」と言っているのと同じ。
それを見た子どもが「それで良いんだ」とまねぶ(学ぶ)危険性、そして子どもが同じようなことをしたとき何も親は言えなくなる。

いま自分の置かれた状況をできるだけ(客観的に)観察し、感情論ではなく最適な行動をとる。
これは組織(会社)では、とてつもなく有用な能力です。
少しそれますが、大多数の幸福というか、どうすれば傷つく人が少なく、多くの人が笑顔になれるか。
青臭い表現ですが、子どもにとってはこういう考え方もありだと思っています。

自分が我慢しているという妬みもあるのでは

また「子どもを立たせるべき」という「べき論」を見ていて、1つ違うのではないかと思うことがあります。
それは「自分たちがそう育てられたから、そうあるべき」という考え。
自分たちのルールが絶対という思考停止は、老害の第一歩です。

また、うがった視点なのかもしれませんが「自分は我慢しているのに」という妬みが強く出ていないか。
我慢することが正しいというのであれば、1人も乗客がいない電車でも立つべきとなります。
「誰もいなくても子どもは立つべき」と思うのは個人の自由ですが、僕は違うと思っています。

体力も有限であり、時間を含む有限のリソースをどうすれば最適に使えるか。
例えば移動時間中は座って勉強して、別の機会に運動するといもの一つの手法です。
社会に迷惑をかけていない、誰も車内以内状況であれば、自分が判断すればよいことです。
そのうえで自分の判断で「立ったままで勉強すれば、肉体強化にもテスト勉強もできる」というのもありえます。

感情的に正論を投げつけても人は動かない

ここまで「立たせるべき」「座らせて何が悪い」などいくつか書いてきました。
再掲ですが僕の意見は冒頭に書いた通り「総論立っていた方が良い、状況によって座らせる」です。
本人しかわからない条件もあることを考えると、1つの模範解答はないと思っています。

そのうえで論争を見ていて思うのが「自説の正当性を声高に主張して相手をねじ伏せて何を目指しているのだろう」ということ。
人間は納得しないと動かないといことは、たいていの大人は知っています。

それぞれの置かれた状況や個人の考えは、その人にしか分からないことが当たり前です。
「分かり合えない」というところからスタートすれば、伝える姿勢は謙虚が一番伝わるのではないか。
外国人と話すとき、文化や背景が違うので言葉や態度に気を付けるというのは、たいていの人がやっていること。
それが、公共交通機関で日本人同士だったとして、何が違うのかと思っています。
想像力の欠如以前の、想像する気がなくコミュニケーション拒否とも言い換えられます。

相手の話を聞けないのは、自分の考えに自信がないと言われても仕方がありません。
また自分の意見が主張するのであれば、伝え方も考えないと相手に受け入れてもらえない(伝わらない)。
大声で恫喝することで「最近の老人は」とか「最近の若者は」など世代間対立のような、あらぬ方向に話が進んでいってしまうのではないか。

僕は「正義(をふりかざすこと)は快感である」と、自戒を含めそう思っています。
正義と言ってもそれは自分の中だけの正義です。

さいごに

今回のこのお話、僕が最近ある観光地で乗ったバスでぼんやり考えていたことです。
その時の状況は、乗客がまばらな状態のバスに、僕とわが家の子どもの2人で乗りました。
乗車時、比較的空いている車内を一望して、座るか一瞬悩んで、1人掛けの席に僕が座りその膝の上に子どもを乗せました。

その後、そのバスにはたくさんの乗客が乗車し、立つ人も大勢いる満員になりました。
結果論でたまたまですが、1人掛けの椅子に子どもと座るのは、良い判断だと思っています。
観光地なので、そういう可能性を事前予測したことが、この時は当たったという事です。

僕が座るという選択をしたのは、車内が空いていたからということもありますが、もう一つ狙いがありました。
それはバスの最前列の一人掛けの席が空いていたこと。
そこは前も横も見える、風景を見るならベストポジション、とても見晴らしが良い場所。
そこに座って、街並みや珍しいものを眺めていれば、子どもも飽きないのではという即物的な理由です。