強制ではなく共生

スポンサーリンク
ライフハック・節約

自分の正義を押し付ける。
内容が正しくとも、押し付けた時点で伝わらない。
正義感が必要かどうかの1点でも、答えはありません。
正しさは快楽なので、正しい確信があるときほど、一歩引いて構えるくらがくらいがちょうど良いものです。

スポンサーリンク

間違った正義感

どこの組織でも発生する、自分の主張を譲らず、結果、だれからも相手にされない人。
以前、僕が所属する10人程度のチームで、自分の意見を曲げなかった人を思い出します。

その10人の組織は慣れあう関係とは程遠く、ビジネスライクに淡々と仕事をし、残業もほとんどしない人たちの集まりでした。
最近は、プライバシー重視が一般的なので、住んでいる場所の市区町村くらいは知っていても詳細は知らず、家族構成を知らないのもザラにあります。
考えれば独身か結婚しているかは相当なプライバシーなので、家族構成を訪ねるには抵抗がある時代です。

そんなドライなチームメンバーの中で1人、たいていのことに「自分が言っていることは、こういう点で正しい」と主張する人がいました。
御多分に漏れず、発言内容は分かりにくく、二転三転するが、主張は曲げない。

全員がいる場で決めた内容を、直後に自分の考えで覆したり、長年チューニングしてきたノウハウに従わなかったり。
蓄積が常に正解ではないのですが、そこには失敗と改善の積層があります。
そのルールに意を唱え、その内容が過去に失敗済みと説明しても、自分が正しいと譲らない。
最後はその人と関わりたくない意見が大勢を占め、チーム全体のパフォーマンスを天秤にかけたとき、該当の人がそのチームから離脱する結果になりました。

自分が考える正しさ(正義)を、どこまで主張するのか。
日本、米国、中国、韓国の4か国の高校生を対象にしたデータがありました。

日本人の正義感は4か国中最低

以下が、2014年に4か国の高校生を1,560人~2,518人を対象にしたアンケートがありました。
「正義感が強いことが大事だと思うか」を聞いた結果です。

出典:高校生の生活と意識に関する調査報告書(国立青少年教育振興機構)

大別すると、日本と韓国が近い数字、米国と中国が近いグループになります。
米国と中国は8割以上が、正義感を[とても大事][まあ大事]と考えています。
世界の覇権国家の2巨頭が、自国の正義を争う縮図のようで、それが高校生も影響が及んでいるとも取れます。

日本と韓国は約1/3の高校生が正義感を[あまり大事ではない][まったく大事ではない]と考えている。
行き過ぎた正義を振りかざして、他人の思想を踏みつけるのを良しとしない、と考えるなら良識と取れます。

僕は正義に限らず、自分の考えの押し付けはやってはいけないと考えています。
相手の意見が、一般論で間違っていると思ったとしても、一般論が万能でもなく、自分の判断の正当性も疑わしい。
法律などの基本ルールに抵触しないのであれば、本人が責任をもってジャッジするしかない。

相手が自分の子どもの場合は、すこし違い、マナーなど白か黒か微妙な内容について、諭すような行為は必要。
初めての経験は判断材料がなく、それは一緒に考える対象で、責めるのは筋違い。
もちろん、言葉の暴力を含む、強制姿勢では本末転倒です。

子どもに正義を持ってもらいたいとき、自然体験は1つの方法という結果があります。

自然体験が多いと正義感が強い

以下のグラフは「自然体験と正義感に基づく行動の関係」のクロス集計です。
上のグラフと同じ対象である、4か国の高校生の合計値です。

出典:高校生の生活と意識に関する調査報告書(国立青少年教育振興機構)

自然体験が多い70.8%の人は、正義行動をとることが多い。
自然体験が少ない75.1%の人は、正義行動をとることが少ない。

理由を考えてみると、自然相手だと自分で考え判断する機会が多くなります。
自然の中にいて素直になり、バイアス抜きに考えると正義行動が増える。
街中の道端にゴミが落ちていても認識しなくとも、自然の中の食べ物の入れ物には目に行く。

あるいは自然が相手で、痛い思いをして、謙虚さを身に着けるのもあります。
謙虚になり傲慢さが薄れ、より正しい行動を目指すようになる。

どれも根拠はありませんが、僕はいっとき登山に傾倒していた時期があり、その実体験からの理由付けです。
都会にいる時が日常で、山は非日常になり、自然の中では特別感もあって、自我が薄れるというのは言い過ぎかもしれませんが、ぼんやり考えてよいアイデアが浮かぶことが多かった。

自然相手に自分の都合や考えを通そうとしても、手痛いしっぺ返しを受けます。
流れに逆らわず、その時にあった適切な行動が必要です。

手段は選ばないといけない

会社組織を含め、人との共生の中で、自分の考えを主張する。
意見を言うのは、生きる権利と同等、他人は否定できません。

しかし意見を通すとき、何をやっても良いのではなく。
手段をいとわない目的達成行動(正義の行使)は、極端な悪例としてテロになります。

テロを行った当人たちは、そのほか大勢から否定的に見られたとしても、それは織り込み済みかもしれません。
さらに問題なのは、近しい意見・思想の人も同じ目で見られるようになり、その人たちの立場も厳しくなってしまう。

911ニューヨーク同時多発テロの後、アメリカ在住のイスラム教徒が大変な目にあったと、当時ニューヨーク在住の友人から聞きました。
いまのコロナウィルスで、米国でアジア人がバッシングを受けるのも、間違った正義。

身近な話としても、自分が所属する組織やグループ内で自分本位の主張を繰り広げた人がいたとして。
その人は、周囲を疲弊させ、去っていった後も地雷が残ります。
類似の主張をする人が、本来正しい内容だったとしても、組織の防衛反応・免疫反応のように、外敵とみなして排除意識が高まる。

自分の意見を言わないのは存在していないのと同じ、という物言いがあります。
しかし、不用意な軋轢を生む状況が予想されるなら、方法論も含め考えて行動するのが大人です。

相手に意見が伝わらなければ、発言そのものに意味がありません。
「正義」は強制力を発する危ないものとして、共生を目指すために一定の距離を持つくらいが理想です。

さいごに

この文章の冒頭の、組織内で自分の正義を貫いてドロップアウトした人にどんな対応が理想なのか。
「できるだけその人の能力が生かせる体制や方法をトライして、どこかで見限る」が、オーソドックスです。

現実は、そういう人がチームになじむことなく、他メンバーへ配慮でバッドエンディングが常道。
1週間もすれば、波風の少ない、平常運転になります。

リーダーは、チームの結果最大化のため、個人のポテンシャルが出せる環境を作る。
この後者に失敗しているのは、その通りとなる。

すべてがうまくいくわけもなく、切り捨てもリーダーの重要な役割なので、気にしないのも普通です。
ただ「あのリーダーは精いっぱいやったな」とチームメンバーの評価が得られる行動をしたのなら、残ったメンバーの信頼を勝ち得ます。