ある公園で、見知らぬ小学生の「自分は雑魚だから」という発言が気にかかりました。
僕がこの言葉で連想したのが「日本人の自己肯定感の低さ」のニュースです。
調べるとたしかに外国に比べて、自己肯定感は低いですが、年々改善されていることも事実。
それ以上に個人的に気になったのが「気分に左右されやすい」点です。
すがすがしいほどの雑魚発言
僕がわが家の子どもと、ある公園で遊んでいた時の一コマです。
われわれより後に来た、小学生3人組が、公園のベンチでスマホゲームをやっていました。
会話を盗み聞きする気はないのですが、こちらもわが子と遊んでいて、待ちが多い状況。
手持ち無沙汰な時、周囲の声が届く距離にいると、つい内容を聞いてしまうこともあります。
今回の小学生3人組の会話の内容から、彼らが小学生5年生だとわかりました。
その中の1人の発言が、僕が気になった冒頭記載の「僕は雑魚の〇〇(自分の名前)だから」。
最初、それを聞いたとき謙遜やギャグ、力の強い友達への媚かとも思いました。
しかし、その後も「自分レベルだと・・・」のような発言が連発。
発言の声音からは、自分を卑下した感じではなく、素の状態でそう思っている雰囲気。
まるで「のび太の横にドラえもんがいるのが当たり前」くらい、何をいまさら当然です、くらいの感覚。
この一例で、子ども全体が自信がないとは思いませんが、子どもを持つ親として、現状が気になりました。
国際比較では自己肯定感は低いが近年改善傾向
日本人は自己肯定感が低い、という情報はいろいろな場所で見聞きします。
自分自身も含め、体感的にも、当たらずも遠からずだと思います。
内閣府に、いまの若者の意識調査で国際比較データがありました。
出典:今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~(内閣府)
このグラフでは、日本は最下位で、3人に2人が自分に長所があると考えているようです。
個人的にはもっと他国との差が出ると予想していたのですが、実際はそれほどでもない印象でした。
ただ「自分には長所がある」との質問に対し、1つも思いつかいないのは、気になります。
アンケートなので、過度に謙遜するとは思えない集計方法でもあり、どうしてこの結果なのか。
日本人は民族的にセロトニントランスポーターでみると、悲観的になりやすい民族。
以下の記事にその内容を記載していますが、これが1つの要因と言えると僕は考えています。
若者が自分の長所があるというアンケートの、経年データが以下です。
出典:平成30年度全国学力・学習状況調査の結果(国立教育政策研究所)
小学校・中学校のアンケート結果の5年推移ですが、状況は良くなっています。
近年に近づくほど、自己肯定感は高まっているようです。
バランスの良い自意識を持った子どもになってもらうには
「親の影響は低い」仮説もありますが、それでも親ができることはないのか。
僕は2つ、意識しています。
1つ目は、乳幼児期に子どもと一緒にたくさん遊び、たくさんほめる。
現代の主流の「自己肯定感を高める」と言われる子育て方法です。
2つ目は、子どもが周りの世界を見る目を養うために一緒に考える、考えさせる。
先生から聞いたからとか、ニュースで言っていた内容を鵜呑みにしない、させない会話。
「それって、どうしてそう(先生が)言ったんだろう」の問いかけ。
自分の視点を養い、客観的視点やバランス感覚を持って、いろいろな人と接していく。
押し過ぎず、引きすぎず。
遅いですが、僕は大人になって「中庸」が「平凡」ではないことに、気づきました。
「平凡」どころか、バランス感覚が優れている人は少ないです。
今回、自意識低下についてみていたのですが、調べたサイトで自意識低下以上に気になった情報がありました。
それは「日本人の子どもは気分に左右されやすい」という内容です。
日本人の子どもは他国に比べ気分屋
以下に3つの国別のアンケート結果です。
出典:今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~(内閣府)
1つ目は「難易度が高いことに意欲的に取り組めるか」の国別データ。
各国の中で、最下位なのは上述の自己肯定感グラフと同じですが、2人に1人という数字です。
他国に比べ、挑戦しない若者たち、と言い換えられるかもしれない結果です。
近年、話題となった「GRIT(やり抜く力)が社会で成功する素養」というお話と逆の結果。
これも気にはなったのですが、今回最大の「大丈夫?」と思った点が以下の2つのデータ。
出典:今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~(内閣府)
どちらもメンタルの内容で、一言でいうと「日本の若者は気分に左右されやすい」です。
気分とは何でしょうか?
僕は、仕事や学校などで学ぶとき、「気分」で行動を決めるのは危ういと思っています。
誰かから「気分が乗らない」という発言を聞くと、「気分とは何ですか?」と聞きたくなってしまいます。
人間は感情があります。
それを否定しているのではありません。
ただ、仕事や入試など一定の結果を残す必要がある事柄について、気分のような不確定なもので動いていて、うまく結果を出せるのか。
外科手術するお医者さんが「今日は気分が乗らないから、適当にオペしよう」で、自分が手術される側だったとして、どう思うのか。
脳科学的にも、人間はやり始めさえすれば、脳はすぐにその行為に慣れます。
重要なのは、とにかく「やり始める」であり、さらには「やり始める習慣をつくる」です。
なかなか長続きしないブログを書き続けることを、例に考えてみます。
家に帰るとダラダラして、いつのまにか深夜になって、明日書けばよいとなる。
学生時代、テスト勉強をしなければいけないのに、やる必要のない掃除を始めるような行為は、たいていの人は経験があると思います。
人間の意思は弱い前提と考えれば、重要なのはやり続ける(習慣化)きっかけをつくること。
習慣化の例として、ブログを書き続けるとするなら、必ず毎日、最寄りの駅のスタバによって、30分その時間に当てる。
人によってですが、たいていの場合、30分以上はやらない方が良いと思っています。
切りが悪いのでもう少し、という場合もありますが、あえて30分限定にした方が、濃縮した時間、良い結果につながります。
人間はフワッとしたものに流されやすい(気分屋)ので、うまく自分をコントロールするための習慣化は、人生の荒波を乗り越えるときの1つの助け船です。
さいごに
「子ども心を忘れた大人」という言葉があります。
若いころ、この言葉に反して、自分はつまらない大人になんかならない、と言うのは良く聞くお話です。
たいていの人は、自分には特別な能力がないことに、人生のどこかのタイミングで気づきます。
「自分は平凡、一般側の人間なんだ」
それをうまく消化(認める)するのは、やっと大人になるとか、そこから人生がスタートするという言い回しもあります。
自分は特別だと何歳になっても思い続け、良い結果に転べばよいですが、大半は痛い人と周囲から見られる。
何度も書いていますが、子どもを持つと「自分の存在の希薄化」が進みます。
子どものことがいつも先、気が付くと自分は後回し。
僕は子どもを持つまで盲目だったことの1つに、ママさんたちの日常の過酷さがありました。
ママさんご自身のこと、自分の外見ややりたいことは後回し、必要最低限で日常を切り盛りする。
多少、抜け漏れがあったとしても、しょうがないと割り切る。
それが母親という地に足の着いた強さ・美しさだと、いまは思えるようになりました。
こうした姿は、映画『風の谷のナウシカ』の以下のセリフを思い起こします。
「この手を見てくだされ。ジル様(ナウシカの父)と同じ病じゃ。 あと半年もすれば石と同じになってしまう。じゃがわしらの姫さまはこの手を好きだとゆうてくれる。働き者のきれいな手だとゆうてくれましたわい。」
日本のパパはどうか。
まだまだ育児参加率が低い時点で、ママたちに「おままごと育児」と言われてもしょうがないのかもしれません。
と、男の僕が自虐的に書いている時点で、僕の自己肯定感が低い証拠のような気もします。