子どもが登園拒否する。
どのくらいの割合で、そうなるのか不明ですが、僕の周りには一定数はいます。
その原因が明確で、かつ対応できれば良いですが、そうではないこともある悩ましい状況。
完全に離脱したり、転園するケースはまれだと思いますが、親としてその気配を察知するアンテナは立てておきたいと思います。
部分が悪いのではなく全体が悪い
片足をねんざすると、もう片足も悪くなる。
僕はこれを不健康な足を健康な足がかばうことが原因で、健康な足も負担が増えて悪くなると思っていました。
そのケースも経験的にすべて間違いとは思っていませんが、違う視点として「そもそも両足が悪くなっていて、その手始めに片足がケガをする」という考え方があります。
全体のバランスが崩れているのが根源、という考えは妙に納得感がありました。
他の例でも、どこかの臓器が悪くなって摘出したり、切開手術をすると、体のあちこちが不調になる。
全体が悪化しているなかで、最初の部分悪化と言われれば、その可能性は否定できません。
典型的な例として、リンパにガンができたら、全身に転移して全体不調になるシナリオは、誰でも納得できます。
部分(目先)ばかりに目が行って、真因を見のがす。
僕は、子どもの小さな「不安」を見落とし、その裏にあった「強い不満」に気づけなかった反省がありました。
子どものデコボコは当たり前
子どもの「イヤイヤ期」だけを取っても、波があるのは経験者ならだれもが理解しています。
激しいイヤイヤから、今日は比較的安定している日が続き、忘れたころに再発するなど。
あとで振り返ってみれば、どれがイヤイヤ期だったのか、分からないのもあるあるです。
わが家の子どもも、不安定な時期を超えて、比較的親の手がかからない時期がありました。
不安定期は、夜中のうなされや、道路で寝っ転がるなど、親になるのは体力勝負だなぁとも思ってた頃がありました。
安定と不安定の行ったり来たり、寄せて引く波のように。
波の満ち引き、やや不安定だなと思っていたある時期、わが家の子どもは「夜、寝たくない」状態になりました。
僕はそれを短慮に、単純にもっと遊びたい、絵本を読んで欲しい、大人は遅くまで起きていてずるい、くらいに考えてしまっていました。
そんな、寝る時間が遅くなる日が何日か続いた後、ある時ボソッと「昼間のお友達との人間関係がイヤ」と子どもが言いました。
園で仲の良かった友達がつらい
その当時、わが家の子どもは通っていた園で、仲の良い友達と「鬼ごっこ」にはまっていました。
余談ですが、子どもの楽しいとずっと続けるあの集中力はすごい。
また「もう飽きた」と言って、一気に冷めて、周りを無視する胆力の強さも同様です。
話を戻して、わが家の子どもは「鬼ごっこ」で「鬼役」になり続ける状況が嫌と考えていました。
通常「鬼役」は順番なのですが、どうやら本人の話ではずっと「鬼役」にさせられる。
順番ではなく長時間「鬼役」が辛く、それをずっと我慢していたようです。
朝になって登園すると、また嫌な「鬼役」をやらなくてはいけない。
その結果、登園する時間が近づくと、大人には意味不明の拒否行動をとりだす。
さらにその前の晩には、朝が来るのが嫌で寝たくない。
本人の話をじっくり聞いて、初めて寝たくない理由にたどり着きました。
どこまで聴くことがよいのか
僕の奥様と僕は、たまに架空の状態を想定して「こんな時どうする?」のシミュレーションをします。
最悪の事態の一例として「小中学校で子どもがいじめにあったらどうするのか?」など。
現実的な選択肢としては、転校させるとかフリースクールなどが上がります。
そして、抽象的な話として「どこで親が介入するのか」も話します。
われわれ夫婦が最適と考えるのが、できるだけ見守って、まずい場合は全力で介入する。
最初から親が出て行って障害を取り除くのは、子どもの生きる力を削ぎます。
人との付き合いは、1つの答えがないのは当たり前。
右往左往する実体験も、イヤな想いをするのも子どもには必要です。
この方針に沿って、まずは子ども同士でできるところまでやらせて、大きくバランスが崩れそうな前で介入する。
どこが介入点か悩むときもありますが、そこはそこ。
少々痛い思いをするのは長い人生で、重要な肥やしだと思っています。
親側も覚悟を持って腹をくくる
僕が思い至らなかった、上記のわが家の子どもが「鬼役」を嫌がっている時。
子どもと面と向き合って、本人がどう嫌なのかを聞いて、いくつか対策を話し合いました。
「鬼役」をやらざるを得ないときはやるが、「ずっと鬼役はイヤ」とはっきり言う。
それでも、継続するようなら、その友達と遊ばない。
また、鬼ごっこ自体に参加しない、というのもよい。
どうやって断るか、一緒に声に出して繰り返す。
大人側対策として、先生にも深刻に本人が悩んでいることを申し伝える。
介入するなら、躊躇なく中途半端ではなく、やり切る覚悟で挑む。
その姿勢が、子どもの安心感につながる可能性が高いと思っています。
大人側も引きずらないことも留意点。
「もっと早く介入すべきだったのでは」
「もっと違うアドバイスができたのでは」
時間が無限で、何度でもやり直せるなら、限りなく100点に近い回答は出せるかもしれません。
現実、そんなものは、砂漠の蜃気楼です。
後悔する時間があるなら、切り替えてこの先どうするか。
さいごに
どこまで他人に関わるか、介入するか。
関係性の深さや、責任のとれる範囲まで考えると、答えはありません。
踏み込むことが良いのか、待つのが良いのか。
踏み込むなら、それが自意識過剰で相手をコントロールしようとか、良く思われよう、と思っていないか。
僕は歳を重ねるほど「何もしない」ことが平気になってきました。
そもそも答えはその人の中にある。
中途半端な介入は、長期的にみても悪になることも多い。
少し逸れますが、初めて意中の女性と話した数十年前、沈黙が恐怖でした。
それがいまでは、沈黙を恐れるような関係性ならなくても良いとすら、思っています。
親子関係で「子どもを育てる」と肩ひじ張るのは、たぶん親側の押し付けなのかと考えます。
「勝手に育つ子供を見守るだけ」一時、一緒に楽しい時間を過ごすくらいの姿勢が適当だと思っています。