子どもが他人の痛さを想像するとき

スポンサーリンク
育児・子供観察

子どもがテレビを見ていて「痛い」と言う。
大人であれば、気持ち悪がられる行為ですが、子どもが幼少期に使う場合は別。
自分ではない何かを想像して、反射する。
他人の顔色ばかりうかがうような状態はどうかと思いますが、一定レベルは社会性・調和に必要な能力です。

スポンサーリンク

想像力とは

最初に「想像力」の意味をいくつかの辞書から引用します。

① 想像する能力やはたらき。過去の表象を再生するもの、まったく新しいイメージを創造するものなどに大別される。
② カントでは、感性と悟性とを媒介して認識を成立せしめる能力。すなわち直観における多様なものを結合して統覚による統一にもたらす能力。構想力。
出典:大辞林 第三版

表象能力のこと。過去の像を再生する再生的想像力と,新しい像を生み出す創造的想像力に区別され,前者は記憶と区別されないことが多く,また後者は特に phantasiaの語をあてることも行われた。
出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

想像力(イマジネーション)とは目には見えないものを思い浮かべる能力のことである。人は目で見,耳で聞き,手で触れる現実のほかに,想像力で作り出した世界を自分の現実にすることができる。今,目の前で起こっていることは見たり,聞いたりすることによって,また過去の出来事も記憶をよび起こすことによって知ることができる。しかし,まだ見ぬ明日は,単に五感を働かせ体験を再現するだけでは思い描くことはできない。未来についての表象を作り出すことが,想像力の働きの最も重要な側面である。未来を思い描く素材として,われわれは経験experienceを利用している。しかし,想像は経験に基づいているが,経験そのものではない。
出典:最新 心理学事典

ちなみに漢字違いの「創造力」。
「創造力」は漢字のごとく「創り出す」意味がありますが、今回の「想像力」は過去の経験が関わっています。
特に上述3つ目の『最新 心理学事典』には、「経験を利用する」という具体的な記載があります。

経験がきっかけになるのであれば、未経験だったらどうなるのか。

子どもにはまだ経験がない

ハンマーでくぎ打ちをしているとします。
トントントンと、最初は細かくたたいて、ある程度くぎが刺さったら強めに打つ。
大人なら、たいていの人が、この流れで実作業すると思います。

そして、これまでの経験から、大人ならハンマーて手を叩いた痛み、といえばある程度、想像できます。
ハンマーの大きさや打ち込む素材にもよりますが、最初のトントントンの力でも、指を叩いたらまぁまぁ痛いなと。

同じように「弁慶の泣き所」を階段でぶつけることも、ほぼ全員経験していると思います。
「あの何とも言えないやり場のない痛み」の「おおおぉぉぉ」が理解できます。

振り返って考えると、子どもはまだ経験したことがない可能性があります。
環境にもよると思いますが、人に噛まれる経験は、子ども時代はゼロということも、現代ではありそうです。

初めてだったとしてもすぐに軌道修正

僕は自分の子どもに噛まれた経験が、少なくとも記憶に残っているのはで2回あります。
実際はもっと回数は多いのかもしれませんが、この2回は、明確に痛いと思ったので強く記憶しています。

2回とも、少し強めの語調で、しっかりと我が家の子どもに言葉をかけました。
「いまの痛かった。あなたがだれかに噛まれて痛かったらどう思う。人を噛んではダメ。」

特に1回目の時は、僕が強めに言った言葉を受けて1秒くらいのハッとした表情で動きが止まりました。
「これは痛いんだ、やってはいけないんだ」
と彼の頭の中で考えているのかな、と僕は受け取りました。

その後「ゴメンナサイ」と、悲しそうでもあり申し訳なさそうな、複雑な表情で謝る。
たぶん、善悪の判断というより、いつも遊んでいる父親に強めに言われたので、沈んだ気持ちになったのかもしれません。
僕もこんな言葉をもらうと、「大丈夫だよ」しか言えなくなります。

当たり前かもしれませんが、それ以降、わが家の子どもは同じ行動をとらないようになりました。
ただ、同じ内容でないと、思いが至らないのも子供らしい。

僕が四つん這いになって子どもが背中に乗る、お馬さんごっこをしていた時。
子どもが僕の背中でロデオのまねのような動きで、僕の服の襟首を背中から強く引っ張り、僕の呼吸ができなくなりました。
「それだと苦しくて、死んじゃうよ」と言うと、次から僕の服を引っ張る力が、圧倒的に軽めに変わる。

1つの事象から、別の事象に発展させて推察する能力は、幼児には難易度が高い一例です。
「これは、(以前の経験から予想して)やるとマズイな」と想像するのは小学校くらいからかもしれません。

子どもの学習能力のあいまいさ

思い返すと、子どもの発達は、いったりきたり。
いままでできなかったことが、やっとできるようになって安心したら、ある時またできなくなったり。
トイレで用を足すのがだんだんうまくなってきても、たまにやらかすのはほぼ全員あるあるだと思います。
その繰り返しの中、だんだん安定的になっていきます。

噛む例でも子どもは乳児のころ、よくモノを口に入れたり、噛んだりします。
噛むオモチャがあること自体、多くの子どもがそれを実行することの裏付け。

わが家の子どもも、噛むオモチャを授乳期にはよく噛んでいて、やがて卒業しました。
その後、少し大きくなってから、ふと気づくと自分の服を噛むことがたまに見受けられました。
そんな時期、僕は2回目の噛みつきを経験しました。

その時は眠そうな顔をしていて、僕が抱っこしていたので、やってはいけない制御のタガが外れたのか。
抱っこは子どもにとって、眠りを誘う最高の環境、うつらうつらしている顔は安心しきった無垢。
実際は、子どもの側には、精神的に不安があるのかもしれません。

やっちゃいけないことを再発させたので、また僕は再度、わが家の子どもに強めに注意しました。
2回目の時も1回目と同様、すぐに「ゴメンナサイ」と言って、1回目との違いは半泣き。
悪いことをしてしまった反省なのか、過去に言われたことをまたやってしまった後悔なのか。
それとも親に強めに言われて、悲しくなったのか。

ただ1回目の時とは違い、自分の感情が出ている「泣く」という情動が伴っています。
これも成長ゆえ、乳児から幼児になって、人間的な感情が出てきたのだなぁ、と思っていました。

僕は半泣きのわが家の子どもを見て、すぐにギュッと抱きしめ、前回と同じような言葉。
「痛かったけど、だけど大丈夫だよ」
すると、サッと笑顔に変わります。
「ゴメンナサイ、もうしません」
と半泣きが、半泣き25%、半笑顔75%になる。
この複雑な感情表現も、親としてグッとくるものがありました。

他人の痛みを想像する力

他人の痛みで、もう1つ、子どもらしいエピソードを僕は持っています。
それはテレビを子どもと一緒に見ていて、子どもがテレビ内容を見て「痛い!」とつぶやきました。

「ひつじのショーン」というほぼ、無静音のクレイアートを見ていた時です。
この番組をご存知の肩であれば、ドタバタ劇で、いたるところに「痛い」を想像できるシーンがあることが分かると思います。
ご存知ない人は「トムとジェリー」が近いと思います。

テレビの中のキャラクターに、大きな石が落ちてきて頭に直撃。
そこでわが家の子どもが「痛い!」

自分と自分以外の境界があいまいな、幼児期ゆえの状態。
「想像する力」ともいえるこの行動は、生きる上で僕は重要だと思っています。

それとともに他人の痛みを気にしすぎて、行動できないようになることもイマイチ。
かといって、天上天下唯我独尊状態は、ほぼこの先の社会では通用しないでしょう。
どちらかに振れすぎない、バランス感覚が求められることでもあります。

想像力が必要なのか

僕の結論は「創造力」は、社会で生きていくうえで重要だと考えています。
度を超すと害にもなる、諸刃の剣でもあると思っています。

幼少期は友達やクラスメイト、成人後は同僚や仲間。
周囲の人と良い関係を築くうえで、かゆいところに手が届くようなふるまいができるか。
特に大人になればその意味が理解できる人が増えるので、あの人なんか良いよね、というのは大きな武器になります。

でもこれは簡単ではないことを、大人になればなるほど理解できます。
他人の考えは分からない。

将棋で言うと、3手先を読むことが重要と言われます。
1手目は自分の手なので、自分の考えで決められる。
2手目の相手の考えは、どの手を使うかわからない。
3手目まで考えるとなると、さらにその先を読まなくてはいけない。
この複雑さを普段から考える癖を子どものうちからつけておけば、世の中を渡っていくのは、比較的楽になるかもしれません。

想像力を育てるには、それだけでたくさんの情報があふれています。
その中で僕が意識しているのは「君はどう思う?」という問いかけと「絵本」。
どちらも、即時性はないですが、根幹にかかわるものだと思っています。

また、冒頭に少しだけ触れた「創造力」。
定義すら難しい言葉だと思いますが、この能力は秀でることができれば、それはとてつもない武器です。

僕はこの2つの言葉は、以下だと思っています。
想像力は、調和や問題解決や自分の楽しみとして、生きていくうえである程度はあった方がよいもの。
創造力は、既存の考えにとらわれない、簡単には思いつかないもので、破壊的なもの。
特に創造力は、いまの時代、その優位性はどんどん高まっている気がします。

さいごに

他人の痛みは分からない。
想像することも意味があるのか。

1つ目は真理で2つ目は生き方だと、僕は思っています。
僕は2つ目は、意味があると思っていますし、それなくしてコミュニケーションは難しいと思っています。

例えば夫婦で考えた時。
子育て期の、特に第1子の場合は、初めての経験だらけで手探り状態。
授乳期の睡眠不足は、どうにか乗りきるかで精一杯、自分たちの生存を脅かされるような時期です。

心に余裕がなくなっていたので、僕は僕の奥様に「事務連絡」という単語をよく使っていました。
オムツが少なくなったとか、何の食材をスーパーなどで買って帰るかなどのを「事務連絡です」と枕詞をつけて使用。

この言葉を使った僕の狙いは、自分たちの生活を安定させるために、あえて感情論にならない状況を目指してです。
時間の余裕があれば許せる内容でも、ぎりぎりの環境では、些細なことでイラっとする。
それが積み重なって、夫婦間の関係がどんどん悪化する。

バナナ1つ買うにしても、「何でこんなバナナ買ってきたの?」のようなやり取りは不毛です。
それを回避するために「事務連絡です、バナナ1房買って帰ります」と連絡しておけば、「今日はいらない」とか「リンゴも1個追加で」など、前に進みます。
小さいように見えますが、この2つは方向が逆、プラスかマイナスの違いがあります。

言い換えると、あらかじめ夫婦で合意をなるべくとっておく、処世術なのかもしれません。
「産後クライシス」の言葉通り、この厳しい時期の対応は、後に響くとを僕は考えていました。
その対策の1つとして、「事務連絡」という言葉を使っていました。

厳しいときこそ、一歩引いて、相手がいま何をを求めているんだろう、と想像してみる。
それを積み重ねられれば、そのチーム(家族)は無敵になるのかも、という僕の勝手な夢想です。