よその子をしかって、あとでその子の親とトラブルになる。
コレを避けるために「放置・無視」や「その場を離れる」というのは子育て中によく遭遇する状況。
昔は地域全体で子どもを見ていたようですが、今の都会ではそんな時代でもなく。
悩ましい状況だからこそ、うまく対応したいトコです。
あまり面識がないよその子が危険行為
ある公園のプレーパークでの出来事です。
その場には、プレーリーダー3名、参加者20名くらいでした。
一応ですがプレーパークとは「自分の責任で自由に遊ぶ」をモットーにした遊び場のこと。
プレーリーダーが公園の一部に遊び場を作り、子ども達がそこで自由に遊ぶ。
1940年以降ヨーロッパを中心に広がった遊び場です。
ザックリ言うと、公園内での穴を掘ったり木登りしたい手作り感あふれる擬似自然遊び場です。
その日もハンモックやロープで木登りしている子。
坂から手作りカートで下っては登る、を繰り返している子。
バケツやシャベルで、どろどろになっている子。
子ども達は思い思いに、楽しんでいました。
そしてお昼が近づいてきてお昼ごはん。
いくつかのグループに分かれて、持参のお弁当を食べました。
食べられる場所がある程度限定されるので、いくつかの集団になって昼食。
仲良しグループもあれば、ほとんど話したことがない人ばかりのグループなど。
この話では、ほとんど話したことがないグループでのお話です。
そんな中、どこにでもある、ありがちなことが起こります。
食べ終わったある子どもが、そばにあったおもちゃの「熊手」でテーブルをたたき出しました。
最初は遠慮がちに食事テーブルを引っかく程度。
その行為はだんだんエスカレートして、ガンガンガン。
熊手が食器にあたって、食器が散乱しました。
その子の親はその場にはおらず、遠くで他のママさんと何か話し込んでいる模様。
そのママさんとの面識はなく、初対面。
はたしてこの状況で、どういう対応が望ましいのでしょうか?
どう対処するのか
子どもが間違ったことをしていたら、近くにいる大人は話す(しかる)というのが一般論としては理想でしょう。
ただし、現代それを躊躇なくできるか、といわれると僕は「やらない」と答えます。
知り合いであれば普通に話す(しかる)ことができますが、見ず知らずの子ども。
その子がどんなタイプの子どもかも、あまり情報がない。
またモンスターペアレンツを想像すると、おのずと自分のアクションは変わってきます。
いくつかの対処パターンを考えてみました。
▼対処パターン
①しかる
後のことを考えるのではなく、マズイ場合はしっかりしかる
関係性にもよりますが、ある程度、見知った間柄ならできますが、見ず知らずの場合は難しい
②やんわり諭す(さとす)
一番汎用性が高く良い対応だと、個人的には考えています
しかるのではなくまず「人に当たると、痛いよねー」などと、対象の子どもに話してみる
③お母さんを呼びに行く
近くにお母さんがいて、その人と知り合いであれば使える手
ただ、お母さんによっては不快になる人もいる可能性
④放置
対象の子どもをいないものとする
自分達に被害がある可能性があります
⑤その場から離れる
消極的かもしれませんが、場合によっては一番良いかもしれません
被害が大きい場合や、知らない環境・状況であればこの方法が適切かもしれません
別案としてひとつ思いついたのは「自分が保育士だったらどうするか?」という視点。
もちろんたいていの方は保育士ではないので、想像になります。
ですが、コレ意外とアクションを起こす場合は良い視点になりえないか。
保育士さんは、たくさんの子どもを相手にしています。
全体の調和とともに、個人個人にも目を向けている。
この2点を意識すれば、総論間違った方向にはいかないのではと思いました。
だれかが危ないことをしていて、他の子どもを傷つける可能性が発生した。
全員の安全を守るために、その子の行為を止めさせる。
その子に怒鳴ったり物理的拘束で止めさせると、その子も周りの子も萎縮してしまう。
注意の仕方もできる限り一工夫、可能であればその子にあった言葉選びをする。
人を傷つける、という間違い行為、社会の基本ルールをその子に分かってもらう。
それを見ていた周りの子も、そういうことはやってはいけないんだ、と認識できる。
コレがスムーズに行くのであれば、良い結果になると思いました。
指摘する側も「感情論」ではなく、「自分は保育士というペルソナ」で演技ができる。
慣れてくると、演技をしているように、客観的視点でモノが見られるようになります。
心理学的のペルソナ
ペルソナとは、自己の外的側面のこと。
「○○ちゃんのママ」というのが分かりやすい例です。
「××というママ友サークルの中では、中心メンバーにならず静かキャラ」などもそうです。
もともとは「仮面」を意味するラテン語が由来です。
「仮面」という言葉通り、本来の自分ではない状態。
仮面をかぶっていると、言いにくかったことが言えたり、本来以上の行動を起こしたりできます。
ですが、ペルソナには大きな注意点もあります。
ペルソナが強くなりすぎて本来の自分が分からなくなること。
ペルソナが脱げなくなっている状態のことです。
「○○ちゃんのママ」や「○○さんの奥さん」という仮面をかぶり過ぎでしまう人。
ただ最近はこの点も一般認識が浸透してきているので、お母さん同士の呼び方を考える人も増えています。
自分を殺しすぎると、本当の自分を見失うことがあります。
そして、ふとしたときにとてつもない空虚におそわれる。
自分の子どもといると子ども優先が基本でしょう。
ペルソナをかぶることに限ったお話ではないですが、たまに自分の中にいる本当の自分と対話することは大事です。
さらにもう1歩踏み込むと「仮面をかぶらざるを得ない状態」について、自分がどう考えるか。
そもそも仮面をかぶるというのは、本当の自分とギャップ(差)があるということです。
その原因を追うと、時には自分の深い部分まで行かないといけないかもしれません。
少なくとも仮面をかぶっている「認識」を持ちことは重要です。
さいごに
僕自身、いくつかのペルソナを使い分けています。
通常仕事上のペルソナ、プレゼンするときのペルソナ、父親としてのペルソナなど。
プレゼンする時や、中途社員面接の時はしっかり屋、飲み会ではすっとぼけたオジサン。
その場で一番効果が高そうな仮面をかぶります。
子どもと遊んでいるときは、できる限り子どもと同じ目線になるように。
なかなかできていませんが、自分が本心で一緒に楽みたむことを目指しています。
子どもは敏感で聡明、表面的なものは見破られると思っているからです。
そんな中でも最近、とても効果的だと思っているペルソナが「沈黙」。
余白を持つことによって、相手にとっても自分にとっても「考える」時間が生まれます。
「沈黙」とは逆になりますが、現代社会で求められているものの1つである、うまいアピール能力。
それも自己満足のためだけのアピールではなく、周りを生かして結果を残すこと。
グローバル化やインターネットによって世界が身近になりました。
その結果、1人1人の思想も変わってきているのかも、今はその過渡期のような気もしています。
言葉通りの「個人主義」から、個人を大切にした上での「共同体思想」へ。
自分がやりたいこと・できることをしっかり考え、その上で誰かに貢献する。
最後にもう1つ。
僕が小学校高学年の時に、近所のオバサンにガッツリしかられた記憶が今でも鮮明に残っています。
僕と友達は、家のそばの空き地で、落ちていた石を、だれもいない方向に投げていました。
友達と向かい合ってではなく、こちらに友人と僕が並んで、空いている方向に全員投げていました。
それを、後ろから見た近所のオバサンが「あぶない!何しているの!」と近づいてきました。
どうやら、友達同士で石を投げ合っている、と思われたようです。
人に向かって投げているわけではなかったので、危なくないと僕は思っていました。
というような言い訳をしたのですが、取り合ってもらえず。
大人から見たら、人に石を投げるのはNG、それ以前に石投げの危険性を指摘したかったのでしょう。
今、考えるとわずかに子ども側にも理がありますが、やはりオバサンの言っていることが正しいと思います。
小学校高学年というと、生意気盛りなのでオバサンがいなくなったあと「ちぇっ」と、ふてくされていましたが。
今でも鮮明にオバサン、しかられたイメージが残っています。
というのも、オバサンはこちらの目をまっすぐに見て、しっかりしかられたからかもしれません。
ちなみにそのオバザン、小学校の教師をしている方でした。
ではでは
◆今回のまとめ◆
よその子をしかる状況は子育てで必ず遭遇する
その場でしかるか、その場から離れるか
ペルソナを活用するのも一手